モーシェ・ベン=マイモーン
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1173年、モーシェはエジプトを支配するアイユーブ朝の君主サラーフッディーン(サラディン)の妃に仕えていた女性と結婚する[24]

モーシェはアイユーブ朝のカーディーアル=ファーディルと親交を結び、1185年[25](あるいは1187年ごろ[26])に宮廷医に指名される。ファーディルの信頼を得たことで医師としての名声が高まり、宮廷医としての名声は彼をカイロのユダヤ人共同体の指導者の地位に就けた[26]。また、1185年にはモーシェに息子が生まれ、彼は子にアブラハムと名付けた[26]

モーシェはサラディンおよびその子アル=アジーズの侍医となり、イスラムの王侯貴族達を診察した。イングランドリチャード1世からイングランド王室の侍医になるよう打診されたが、モーシェは「野蛮」なヨーロッパ世界よりも「文明的」なイスラム世界を好み、勧誘を断った[7][27]

1204年にフスタートで没する。遺体はモーセの辿った道を運ばれてガリラヤ湖畔ティベリアに葬られ、その墓は今なお巡礼者が絶えない。葬列はベドウィンに襲われたが参列者の中に動揺する者は無く、ベドウィンたちも葬列に加わった伝承が残る[28]。カイロのラッビー・モーシェ・ベン=マイモーンのシナゴーグの地下の一室は、病んで貧しいユダヤ教徒が夜を過して平癒を祈る所となった。

1953年イスラエルで国際科学史会議が開催された記念として、モーシェの切手が発行された[29]。また、モーシェの肖像画はイスラエルで発行された紙幣にも採用された[30]
著作

モーシェは講義を好まず、著述によって自身の思想を伝えることを好んだ[31]。著作はアラビア語で行われたが、それは直ちにヘブライ語に訳された。彼の死後数十年して、さらにラテン語に翻訳された。
ユダヤ法学

ミシュネー・トーラー』を合わせて、ベン・マイモンは可能な限り広範囲で、深みのあるユダヤ法法典を作り上げた。この仕事は、タルムードからはすべての拘束力のある法を収集し、ゲオーニームの立場を取り入れている。

のちのユダヤ法法典、たとえばラビ・ヤアコブ・ベン・アシェルによる『アルバア・トゥリーム』、ラビ・ヨセフ・カロによる『シュルハン・アルーフ』は『ミシュネー・トーラー』に大きく依存している。しかし、公開当時には多くの反対があった。それには主に二つの理由があった。最初、ベン・マイモンは著作を簡潔にするために原典への引照をつけなかった。第二に序論でユダヤ法を完結に至たらしめるためにタルムードの研究を「切り捨て」ようとしている印象を与えた。後に彼はそのような意図はなかったと書いている。彼の最も強力な反対者はプロヴァンスのラビたちであり、ラビ・アブラハム・ベン・ダヴィド(ラアヴァド3世)による批判は『ミシュネー・トーラー』のほぼすべての版に印刷されている。

それは依然ハラハー(ユダヤ法)の体系化のためにの記念的貢献だと認識されていた。何世紀にも渡って広く研究され、そのハラハー的決定は後の判決にも重く掛かってきた。ラビ・ヨセフ・カロは、『ミシュネー・トーラー』に従う人たちに、『シュルハン・アルーフ』や他の後の法典に従うよう強制しようとする者達に応えてこう書いている。「誰がラムバン(ベン・マイモン)に従うコミュニティに他の裁定者に従うことを強制するだろうか?......ラムバンは最高の裁定者であり、イスラエルの地とアラブの地、マグレブ諸国すべてのコミュニティは彼の言葉に従って実践しており、彼を彼らのラビとして受け入れている」

彼のよく引用される法的格言に「罪のない一人を死刑にするよりは、千人の犯罪者を無罪とする方がよい」がある。彼は絶対的な確実性に満たないもので被告の処刑を行うと、立証責任の減少へと落ち込んで行き、我々は気ままに有罪判決を下すようになるであろうと論じた。
ユダヤ神学、哲学

モーシェ・ベン=マイモーンが残した最大の成果は、従来の膨大なユダヤ法に関する諸資料を体系的に分類し、かつ法典化した『ミシュネー・トーラー』である[10]。同書はタルムード・アラム語ではなく、ミシュナの形式のヘブライ語で書かれている。『ミシュネー・トーラー』は『ミシュナー註解』と合わせて、ユダヤ人社会で高い評価を受けた[14]

また、哲学書『迷える人々の為の導き』は、信仰を失った哲学者たちに呼びかけた著作で、その目的は、アリストテレスとユダヤ教神学とを宥和させることにあった。トーラーの聖句に隠された意味についてアリストテレス派[10]と、ファーラービーイブン・スィーナーらアラブ哲学者の見解を用いて読み解こうと試み[13]、ユダヤ教神学を合理的に解釈した。アリストテレスは月下の世界に関する権威だが、啓示というものは天上の世界に関する権威である、と彼はいう。しかし神に関する知識において哲学と啓示とは合一するのであり、真理の追求は宗教的な義務であるという。イスラム世界では物議をかもし[13]、保守的な思想を持つユダヤ人の一派はモーシェの哲学書を焼却した[32]。その思想はあまりに合理的すぎると批判もされたが、聖書の哲学的解釈の先駆けとして後世に影響を与えた[10]

後に『迷える人々の為の導き』はラテン語に訳され、アルベルトゥス・マグヌストマス・アクィナスエックハルトらのキリスト教神学者達から高い評価を受ける[10][13]

モーシェは自身の思想は理解しがたい高度なものであると考えており、読者が一定の学識を有することを前提として著述を行った[33]。そこには無知な一般大衆を蔑視するモーシェの態度が表れているが[34]、それでも文章の表現は華美と評価されている[33]。もっとも、相手を嘲笑する文体はモーシェ自身も嫌悪しており、極力表現を抑えようと努力していた[35]
迷える者たちの導き

迷える者たちの導き(Arabic: ????? ????????, dal?lat al-??'ir?n, Hebrew: ???? ??????, Moreh Nevukhim)はマイモニデスによる三つの主著の一つである。この著作は多くの事例について合理的な説明を見出すことによって、ヘブライの聖書学とアリストテレス哲学の調和を探求している。ヘブライ文字で表記された古典アラビア語(ユダヤ・アラビア語)で書かれ、彼の弟子であるセウタのヨセフ・ベン・ユダに送った、三つの部分からなる書簡からなり、マイモニデスのユダヤ法に関する意見とは異なる、哲学的見解の主な情報源となっている。ごく少数の人によってこの著はマイモニデスの作品ではなく、匿名の異端者によって書かれたと信じられている。その中で注目されるのは18世紀の学者レブ・ヤアコブ・エムデンである。

彼の神学的見解や宗教と哲学の関係などの哲学的概念の多くは厳密なユダヤ教神学を超えて関連しているため、非ユダヤ世界において最もマイモニデスに関連づけられている著作であり、幾人かの主要な非ユダヤ人の学者たちにも影響を与えた。その公刊に続いて「中世の残りの時代のほぼ全ての哲学的作品はマイモニデスの見解を引用、注釈または批判した」。ユダヤ教内部においても『導き』は広く普及し、多くのコミュニティが写本を求めたが、同時に一部のコミュニティではその研究を制限したり禁止したりなどの論争を引き起こした。
構成

1190年頃書かれ、1204年に同時代人のサムエル・ベン・ユダ・イブン・ティッボンによってヘブライ語に翻訳された。マイモニデスは『導き』を以下のものとして書いた。

「吾々の聖なる律法の真理を信じるように訓練され、道徳と宗教的義務を誠実に果たし、同時に哲学的研究に熟達した宗教的な人を啓発するため」「この書には第二の目的がある。預言者達に現れるある曖昧な異象を説明しようとするものであり、それらは異象として厳密に特徴づけられていない。無知で皮相的な読者はそれらを象徴的ではなく文字通りに解釈する。知識ある人であっても文字通りに理解する時は困惑してしまうが、我々がその象徴を説明したり、その語が単なる比喩であることを示唆すれば困惑から完全に解放される。故に私がこの書をして『迷える者たちのための導き』と題した所以である」


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