モーガンの襲撃
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モーガンはシンシナティを守るバーンサイド軍を避けて、オハイオ州の南端に向かうことにし、そこにはケンタッキー州に渡ることのできるバッフィントン島の浅瀬があった。バーンサイドはモーガンの意図を正しく推測した。エドワード・H・ホブソンとヘンリー・M・ジュダの指揮する北軍および川の砲艦が渡河を遮るために迅速に集結した。バーンサイドもマリエッタから民兵1個連隊を派遣し、北軍が到着するまで浅瀬を守らせた。モーガン隊は7月18日の夕刻に到着したが、暗闇が深まる中で民兵隊を攻撃しないことにした。これが後に誤りだったことが分かった。

朝になるまでに騎兵隊と砲艦が到着し、モーガン隊の脱出路を塞いだ。その後におこったバッフィントン島の戦いで北軍が決定的な勝利を奪い、モーガンの弟リチャードや著名な騎兵バジル・デューク大佐を含みモーガン隊の750名を捕獲した。モーガンと残った騎兵達は北軍の砲艦によって危険に曝され、オハイオ州内で北東に向かった。20マイル (32 km)上流で(ウェストバージニア州ベルビルの対岸)再度渡河を試みたが失敗し、砲艦や北軍の騎兵が再び襲撃隊を駆逐する中でモーガン隊の何人かは渦巻く川で溺れた。アダム・"ストーブパイプ"・ジョンソン大佐と300名以上の襲撃隊は無事にウェストバージニア州に逃れ出たが、モーガン将軍はそのか細くなった部隊と共にオハイオ州側に留まる道を選んだ。ガリア郡のコールヒルとホッキングポートで小戦闘を行い、さらにその部隊は小さくなった。

モーガンと残る400名の部隊は川から離れオハイオ州南部の内陸に入り、ホッキング運河の小さな町ネルソンビルで止まった。兵士達は追跡を遅らせるために運河の木造船を燃やし、覆いのある橋を炎上させた。しかし、モーガン隊が去ると直ぐに市民達が駆けつけて橋の全焼を食い止めた。2時間後北軍騎兵隊が到着し、町の人々が食事を用意してくれていたので喜んだ。オールド・ワシントンに入るモーガン襲撃隊

7月22日、モーガン隊はトリアデルフィア近くのウィーバーの敷地で小休止し、人質に取った若いジョン・ウィーバーに案内されてアイランドランを下り、ゼインズビルの直ぐ南イーグルスポートで広いマスキンガム川を渉り、その後北に転じてガーンジー郡に入った。モーガンはこの時もどこかでオハイオ川を渉り、ウェストバージニア州を抜けて安全地帯に入ることを期待していた。オールド・ワシントンの村ではモーガン隊の疲れきった兵士が村の通りで小戦闘を行い、ジェイムズ・M・シャッケルフォード准将の北軍騎兵隊に追われて慌しく出発した。7月26日、北軍はセイリーンビルの戦いでモーガン隊を破り、遂にその日の午後コロンビアナ郡ウェストポイントで捕まえた。北軍は、捕虜になった北軍の士官が受けたと報告されていた待遇と同様にモーガンとその士官達をコロンバスのオハイオ州刑務所に送り、戦争捕虜のキャンプには送らなかった。兵士達の多くはシカゴのキャンプ・ダグラス軍刑務所に落ち着いた。

11月27日、モーガン将軍と6人の士官達は監房の下にある通気口からトンネルを掘って刑務所の庭に出て塀を攀じ登り、大胆な脱走を成し遂げた[4]。そのうち2人は再逮捕されたが、残りは間もなく南部に戻った。それから1年足らず後、モーガンはテネシー州で北軍の攻撃から脱出を図っているときに停止を拒んで北軍騎兵に殺された。
襲撃による成果

モーガンとその部隊による大胆な襲撃の間に、北軍兵と州兵併せて6,000名を捕獲して釈放し、34の橋を破壊し、60箇所以上の鉄道を遮断し、数万名の北軍兵の任務を妨害した。その地域一帯に恐怖を広げ、地域の店、家および農園から数千ドルの価値がある物資、食糧などを奪った。この襲撃の時期はゲティスバーグ方面作戦や、ジョン・D・インボーデンの騎兵隊によるピッツバーグに向けた襲撃と時を同じくしていたので、当時の人々はモーガンの襲撃をオハイオ川の交易を脅かし北部に戦争を拡大するための協調行動の一部だと見なした。北部の人でモーガンの挙行が命令違反であり、ロバート・E・リーによるペンシルベニア州での同時期の動きに何の関係も無いと認識した者はほとんどいなかった[要出典]。

オハイオ州だけで約2,500頭の馬が盗まれ、4,375軒の家や事業所が襲撃された。モーガンの襲撃はオハイオ州の納税者に60万ドル近い損害を与え、地元の民兵隊587中隊に招集されたオハイオ人49,357人に支払われた給料は20万ドル以上に上った[5]

モーガン隊にとって、この長い襲撃はその最終的敗北と高い損失にもかかわらず多くの成果を挙げた。バジル・デューク大佐は後に「襲撃の目的は成し遂げられた。ブラッグ将軍の撤退は敵の側面攻撃に悩まされなかったし、これら全ての事実を眺めた軍事関係者はこの遠征が東テネシーの陥落を数週間遅らせ、そうでなければチカマウガの戦いローズクランズの援軍として参加したであろう部隊のタイムリーな到着を妨げたと思う」と記した[6]
記念

ケンタッキー州とインディアナ州はジョン・ハント・モーガン史跡の道を識別し、観光客が州内でモーガンの襲撃経路を辿れるようにしており、ウェブサイトや文書の観光ガイドも用意している[7]。オハイオ州の同様な道を指定する計画はまだ実っていないが、襲撃隊の具体的行動やその訪れた町を記念する100個以上の史跡表示を立ててきた[8]。2001年11月、オハイオ州はオハイオ州立刑務所の跡地にモーガンの収監と大胆な脱走を記念してジョン・ハント・モーガン史跡表示を置いた[4]。1910年にはモーガン将軍の騎馬像がケンタッキー州レキシントン中心街に立てられ除幕された[9]
脚注^ Official Records
^ Kelsey, page 323; Official Records.
^Mosgrove account in SHSP
^ a bOhio Historical Society
^ Harper, page 23.
^ Duke, page 460.
^Indiana's John Hunt Morgan Heritage Trail Archived 2005年7月26日, at the Wayback Machine.
^Ohio's plans for a Morgan trail
^Morgan's Men Association; Photo of dedication of Morgan monument

関連項目

西部戦線 (南北戦争)

参考文献

"An Incident of Morgan's Raid: Valueless Bill Left to Pay for Fine Horse and Wheat Crop," The Zanesville Signal, 4 December 1906.

Duke, Basil Wilson, A History of Morgan's Cavalry. Cincinnati, Ohio: Miami Printing and Pub. Co., 1867. On-line version


Harper, Robert S., Ohio Handbook of the Civil War. Columbus, Ohio: The Ohio Historical Society, 1961.

Horwitz, Lester V., The Longest Raid of the Civil War. Cincinnati, Ohio: Farmcourt Publishing, Inc., 1999. ISBN 0-9670267-3-3.

Kelsey, D.M., Deeds of Daring by the American Soldier North and South During the Civil War. New York, Akron, and Chicago: The Saalfield Publishing Company, 1903.

Mingus, Scott L., "Morgan's Raid," CHARGE! Magazine, Volume 4, August, 2004, pages 12-13. Text used by permission of the Johnny Reb Gaming Society.

Mosgrove, George Dallas, " ⇒Following Morgan's Plume in Indiana and Ohio," Southern Historical Society Papers, Vol. XXXV. January-December, 1907.

Ramage, James A., Rebel Raider: The Life of General John Hunt Morgan. Lexington, Kentucky: University Press of Kentucky, 1986. ISBN 0-8131-1576-0.

Simmons, Flora E., A complete account of the John Morgan raid through Indiana and Ohio, in July, 1863. Self-published, 1863.

Thomas, Edison H., John Hunt Morgan and His Raiders. Lexington, Kentucky: University Press of Kentucky, 1975. ISBN 0-8131-0214-6.

U.S. War Department, The War of the Rebellion: A Compilation of the Official Records of the Union and Confederate Armies, 70 volumes in 4 series. Washington, D.C.: United States Government Printing Office, 1880-1901. ⇒On-line version

外部リンク

Ohio Department of Natural Resources. The Role of Geology in Morgan's Raid

Indiana Historical Marker for Morgan's Raid

John Hunt Morgan Heritage Trail

Morgan's Men Association

Buffington Island Preservation - ウェイバックマシン(1999年10月23日アーカイブ分)

Longestraid.com; website for definitive work on Morgan's Raid

Brown, Dee A., Morgan's Raiders. New York : Konecky & Konecky, 1959. ISBN 0914427792.

Conway, W. Fred, Corydon ? The Forgotten Battle of the Civil War. FBH Publishers, 1994.

Conway, W. Fred, The Most Incredible Prison Escape of the Civil War. FBH Publishers, 1994.

Simms, Jere. H., ed., The Last Night and Last Day of John Hunt Morgan's Raid: Eyewitness Accounts of Morgan's Ohio Raid of 1863. (originally published 1913; reprinted by Genesis Publishing Co., 1997).





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