歴史ノートルダム聖堂モントリオール市庁舎詳細は「en:History of Montreal」を参照
1535年にジャック・カルティエが最初のヨーロッパ人として現在のモントリオールに到達した[注釈 2]。その地はイロコイ族の砦があり、Hochelaga(英語版)と呼ばれていた。
その後1603年にサミュエル・ド・シャンプランが訪れたのち、1641年にポール・ド・ショメディ・メゾンヌーヴ(英語版)により家屋・道路の建設に着手し、1642年よりフランス人の入植が始まり、5月17日に、聖職者、尼僧、開拓者からなる一団がヴィル・マリー(マリアの街)の名で開拓地を設立した。1644年には北米で最初の病院が建てられた。
フランス領植民地(ヌーベルフランス)内で毛皮取引の中心地となり、またフランス人探検家たちの拠点として使われた。
1760年にイギリス軍に占領され、1763年にイギリス領植民地となった。
1832年に市に昇格し、1844年から1849年に掛けて英領カナダ州(Province of Canada)の首都となった。1861年から1933年の大恐慌までの期間、モントリオールは経済的に発展し、黄金時代を迎えた。二つのカナダ横断鉄道路線がモントリオールを通り、モントリオールは経済的にカナダで最も重要な都市となった。
1967年にモントリオール万国博覧会、1976年に1976年モントリオールオリンピックが開催された。1980年頃まではカナダ最大の都市だった。
しかし1970年に生じたオクトーバー・クライシスと言われる要人の誘拐および殺人、ならびに爆弾テロ事件多発に伴う軍出動の戦時措置法の発動といった社会混乱(イギリス資本が攻撃の標的となった)、およびその後のフランス語単一公用語化に伴い、多くの企業の本拠地がトロントへと移った。その後ケベック解放戦線(FLQ)の主要メンバーの検挙等により、社会は沈静化し、現在は他の北米地域に比べ安全であると言われる[27]。
カナワクとカヌサタクに居留区がある先住民のモホーク族とカナダ、ケベック州政府ならびにカナダ軍は先住民の権利を巡ってしばしば対立関係にあり、1990年にはオカの闘いが起きている。
2021年1月、新型コロナウイルス感染拡大に伴い夜間外出禁止令が発出された。当初は開始時間を午後8時としていたが、市内に限り5月3日から午後9時半に緩和された[28]。
地理雪と氷に覆われた冬のモントリオール(衛星写真)モン・ロワイヤル山
モントリオールは、セントローレンス川とオタワ川の合流点にある川中島であるモントリオール島(英語版)に位置する。
モントリオール島の中央には標高233mのモン・ロワイヤル(Mont Royal、フランス語で「王の山」)があり、都市名の由来といわれ、公園となっている。
この付近のセントローレンス川の川幅は5kmに及ぶ場所もあり、流路の途中がサンルイ湖、ドゥ・モンターニュ湖(英語版)となっている。川や湖は冬場にはほぼ凍りつく。市内には合計74の島がある。
セントローレンス川はモントリオール島の南を流れ、LaSalle地区の南岸でラシーヌ瀬という急流になっている。
かつてはセントローレンス川を遡る船はこの急流を遡ることはできず、大西洋から貨物は一旦モントリオールで陸揚げされ、急流の上流でまた船に積み替えられていた。1825年にラシーヌ運河が完成し、中型の船は積み替えなしにモントリオール島を通り抜けられるようになったが、その後もモントリオールは重要な河港として発展を続け、後にカナダ各地からの鉄道貨物を外航船に積み替える港町となった。現在は船はセントローレンス川南岸に作られた運河を通りラシーヌ瀬を迂回し五大湖へ向かう(セントローレンス海路)。
モントリオール島の北はプレリー川(英語版)が流れ、川を隔てた北も川中島のジェス島(英語版)で、人口40万人のラヴァル市がある。またモントリオール島の南には人口23万人のロンゲール市がある。両市は郊外のベッドタウンとなってモントリオール大都市圏を形成している。
行政区分現在のモントリオール島の行政区分(モントリオール市が赤色)合併前(2001年)のモントリオール島の行政区分(モントリオール市が赤色)2002年?2006年のモントリオール島の行政区分(モントリオール市が赤色)モントリオール島の行政区名とウエストアイランド