モンテネグロ(Montenegro、モンテネグロ語: Crna Gora、キリル文字:Црна Гора)は、東南ヨーロッパ、バルカン半島に位置する共和制国家。首都はポドゴリツァ[3](旧憲法ではツェティニェ[4])。南はアドリア海に臨み、北西をクロアチアのドゥブロヴニクとボスニア・ヘルツェゴビナ、北東をセルビアのサンジャク地方、南東をアルバニア、東部をコソボと接する。 同国は、21世紀に独立を果たした国家の一つに数えられている。前身はユーゴスラビア紛争によるユーゴスラビア社会主義連邦共和国の解体によって成立したユーゴスラビア連邦共和国(1992年-2003年)およびセルビア・モンテネグロ(2003年-2006年)を構成する2つの共和国のうちのひとつ、モンテネグロ共和国であった。 モンテネグロ共和国は2006年6月3日に独立を宣言し、現在の同名国家となる形で消滅した。 公用語のモンテネグロ語ではツルナ・ゴーラ(Црна Гора、Crna Gora)[注釈 1]と呼ぶ。モンテネグロ(Montenegro)[注釈 2]とはヴェネト語による名称で、いずれも「黒い山」を意味し、これはツェティニェにあるロヴチェン山に由来している[5]。また、近隣のアルバニア語では「Mali i Zi」、ルーマニア語では「Muntenegru」、ギリシャ語では「Μαυροβο?νιο」など、意訳の名前で呼ばれる。 かつて黒山国とも当てられ[6]、中国語では黒山[注釈 3]と訳する。なお、台湾の中国語ではMontenegroを「蒙特?哥羅」[注釈 4]と音訳されることが一般的(外国地名および国名の漢字表記一覧参照)。 日本語での表記は「モンテネグロ」。2007年10月の新憲法制定に伴い、それまでの「モンテネグロ共和国」(Република Црна Гора、Republika Crna Gora)から「共和国」が外された。 言語的、文化的にはモンテネグロ人とセルビア人の違いはほとんどない。宗教も同じ正教会だが、セルビアで主流のセルビア正教会の他に、マケドニア正教会とセルビア正教会に併合されたモンテネグロ正教会も復活して存在する。 ドユラード・ツルノイェヴィッチ
概要
国名
歴史詳細は「モンテネグロの歴史」を参照
1878年、露土戦争の講和条約であるサン・ステファノ条約、ベルリン条約でオスマン帝国からの完全な独立を承認された。1905年に憲法が制定されて、モンテネグロ公はモンテネグロ王と規定しなおされ、国号はモンテネグロ王国になった。公国および王国の初代君主はニコラ1世で、1918年までその地位にあった。北をオーストリア・ハンガリー帝国、南をオスマン帝国に挟まれる地政学的条件を背景として、モンテネグロはロシアとの協調を対外関係の機軸とした。日露戦争では1905年日本に宣戦布告し、ロシア軍とともに戦うため義勇兵を満州に派遣していた[7]。しかし実際には戦闘に参加しなかったことから、その宣戦布告は無視され、講和会議には招かれなかった。そのため国際法上は、1918年のセルビアによる併合後も、モンテネグロ公国と日本は戦争を継続しているという奇妙な状態になった。
第一次世界大戦では、セルビアに対していくらかの援助を行った。このためモンテネグロはオーストリア・ハンガリー帝国に占領されることになり、ニコラ1世はフランスへと亡命した。その後モンテネグロはセルビア軍によって占領され、1918年に成立したスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国(のちユーゴスラビア王国)に取り込まれた。1919年に併合反対派が武装蜂起(クリスマス蜂起)を起こしたが、セルビア軍により鎮圧された。以後はユーゴスラビアの中の一地域となった。ニコラ1世とその子孫はモンテネグロ王位を請求し続けたが、実らなかった。モンテネグロ王国 (1941年-1945年)(英語版)