モンテネグロ
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モンテネグロ共和国は2006年6月3日に独立を宣言し、現在の同名国家となる形で消滅した。
国名

公用語のモンテネグロ語ではツルナ・ゴーラ(Црна Гора、Crna Gora)[注釈 1]と呼ぶ。モンテネグロ(Montenegro)[注釈 2]とはヴェネト語による名称で、いずれも「黒い山」を意味し、これはツェティニェにあるロヴチェン山に由来している[5]。また、近隣のアルバニア語では「Mali i Zi」、ルーマニア語では「Muntenegru」、ギリシャ語では「Μαυροβο?νιο」など、意訳の名前で呼ばれる。

かつて黒山国とも当てられ[6]、中国語では黒山[注釈 3]と訳する。なお、台湾の中国語ではMontenegroを「蒙特?哥羅」[注釈 4]と音訳されることが一般的(外国地名および国名の漢字表記一覧参照)。

日本語での表記は「モンテネグロ」。2007年10月の新憲法制定に伴い、それまでの「モンテネグロ共和国」(Република Црна Гора、Republika Crna Gora)から「共和国」が外された。
歴史詳細は「モンテネグロの歴史」を参照

言語的、文化的にはモンテネグロ人セルビア人の違いはほとんどない。宗教も同じ正教会だが、セルビアで主流のセルビア正教会の他に、マケドニア正教会とセルビア正教会に併合されたモンテネグロ正教会も復活して存在する。

ドユラード・ツルノイェヴィッチ(英語版)公(?ura? Crnojevi?)が大主教に賛同して退位し、1516年ツェティニェの主教公(英語版)(vladika)による神権政治が確立した(ツルナ・ゴーラ府主教領(1696-1852))。主教公の職は1697年からペトロヴィチ=ニェゴシュ家が保持した。主教公は、その神権政治という性格から叔父から甥へと継承され、オスマン帝国スルタンに朝貢を続けながら国家を存続させた。主教公は1852年に世俗的な公へと転化し、モンテネグロ公国が成立した。これを契機として宗主国オスマンとの武力衝突に発展し、ロシア帝国の支援を仰ぐことになっていた。モンテネグロ王国 (1913年)

1878年露土戦争の講和条約であるサン・ステファノ条約ベルリン条約でオスマン帝国からの完全な独立を承認された。1905年に憲法が制定されて、モンテネグロ公はモンテネグロ王と規定しなおされ、国号はモンテネグロ王国になった。公国および王国の初代君主ニコラ1世で、1918年までその地位にあった。北をオーストリア・ハンガリー帝国、南をオスマン帝国に挟まれる地政学的条件を背景として、モンテネグロはロシアとの協調を対外関係の機軸とした。日露戦争では1905年日本に宣戦布告し、ロシア軍とともに戦うため義勇兵を満州に派遣していた[7]。しかし実際には戦闘に参加しなかったことから、その宣戦布告は無視され、講和会議には招かれなかった。そのため国際法上は、1918年のセルビアによる併合後も、モンテネグロ公国と日本は戦争を継続しているという奇妙な状態になった。

第一次世界大戦では、セルビアに対していくらかの援助を行った。このためモンテネグロはオーストリア・ハンガリー帝国に占領されることになり、ニコラ1世はフランスへと亡命した。その後モンテネグロはセルビア軍によって占領され、1918年に成立したスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国(のちユーゴスラビア王国)に取り込まれた。1919年に併合反対派が武装蜂起(クリスマス蜂起)を起こしたが、セルビア軍により鎮圧された。以後はユーゴスラビアの中の一地域となった。ニコラ1世とその子孫はモンテネグロ王位を請求し続けたが、実らなかった。モンテネグロ王国 (1941年-1945年)(英語版)

第二次世界大戦でユーゴスラビアはイタリアとドイツによる侵攻を受け、分割された(ユーゴスラビア侵攻)。モンテネグロはイタリアの占領下に置かれ、傀儡国家モンテネグロ独立国(イタリア語版)の統治下に置かれた。しかしパルチザンの抵抗の結果、1944年に枢軸軍は撤退し、モンテネグロは再びユーゴスラビアに復帰した。建設されたユーゴスラビア社会主義連邦共和国においては連邦を構成する6つの共和国の一つモンテネグロ人民共和国、1963年からはモンテネグロ社会主義共和国として存続した。ユーゴスラビア社会主義連邦共和国内のモンテネグロ(濃緑)

1991年から始まったユーゴスラビア紛争においてもモンテネグロ共和国セルビアと歩調を合わせており、最後までユーゴスラビア連邦共和国から離脱しなかった。1997年の選挙でミロ・ジュカノヴィッチ大統領に就任したころから、分離独立の示唆が行われて来ていた。1999年コソボ紛争でもセルビアの行動を非難し、アルバニア難民の受け入れに努めた。コソボ紛争後、通貨や関税に関してセルビアから独立し、徐々に独立の動きが強まっていった。

これに対して欧州連合はモンテネグロの独立がヨーロッパ地域の安定に必ずしも好影響を及ぼさないという立場から、モンテネグロとセルビアの仲介に動き出した。こうした欧州連合の努力により、2003年2月には3年後の2006年以降に分離独立の賛否を決める国民投票を実施できるという条件付きで国家連合セルビア・モンテネグロが成立した。新国家はセルビア・モンテネグロ内で圧倒的にマイノリティーであるモンテネグロに対してセルビアとの間に最大限の平等を保障していたが、それでもモンテネグロは共同国家の運営に対して非協力的であり、モンテネグロ独自の外交機関、軍事指揮系統を有していた。このため連邦国家としてのセルビア・モンテネグロはほぼ有名無実の状態になっていた。

2006年5月21日に、セルビアからの分離独立の可否を問う国民投票が実施された。欧州連合は、セルビア・モンテネグロでなければ欧州連合への加盟を認めないという立場を取っていたが、投票の直前には「50%以上の投票率と55%以上の賛成」というハードルに切り替えた。一方で独立支持派は「モンテネグロの独立こそが欧州連合加盟への早道」であるとするキャンペーンを展開した。投票の結果、投票率86.5%、賛成55.5%で欧州連合の示した条件をクリアした。

2006年6月3日夜(日本時間4日未明)に独立賛成派が国民投票の結果に基づき独立を宣言した。6月5日にはセルビアもセルビア・モンテネグロの継承を宣言して、モンテネグロの独立を追認した。6月12日には欧州連合がモンテネグロに対する国家承認を行った。これにより国際的にモンテネグロの独立が認められた。両国の独立により6つの共和国から構成されていたユーゴスラビア連邦の枠組みは完全に解体された。6月16日に日本が国家承認[8]6月28日国際連合加盟した。

日本との関係では、独立に際して、日露戦争における戦争状態が解消していない事が問題となる可能性が指摘された。これについて日本政府は、2006年に提出された衆議院議員鈴木宗男の質問主意書に対する答弁書において「千九百四年にモンテネグロ国が我が国に対して宣戦を布告したことを示す根拠があるとは承知していない。」と回答している。2006年6月3日のモンテネグロ独立宣言に際し、日本政府は、6月16日に独立を承認し、山中Y子外務大臣政務官を総理特使として派遣した[9]UPI通信は、6月16日、ベオグラードのB92ラジオのニュースを引用し、特使は独立承認と100年以上前に勃発した日露戦争の休戦の通達を行う予定と報道したが[10]、日本国外務省からは、特使派遣報告をはじめとして日露戦争や休戦に関連する情報は出されていない[11]


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