モンゴル系民族
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1207年チンギス・カンの長男ジョチによってモンゴル帝国に編入されて以来、モンゴル民族となり、その影響でチベット仏教も広まった。17世紀よりロシアの侵入が始まり、1689年ネルチンスク条約によってロシア領となる。1920年には赤軍により極東共和国が建てられ、まもなくソ連領となり、1923年にはブリヤート・モンゴル自治共和国に編入され、1958年には現在のブリヤート自治共和国に改称された。また、カスピ海北岸のカルムイク共和国には上記のオイラド族と同族であるカルムイク人が住む。「カルムイク」とはヨーロッパ側からの呼び名であり、自称はやはり「オイラド」という。自治共和国の人口は29万人であるが、カルムイク人はその半数以下である。カルムイク語はモンゴル語西部方言に属し、文字はキリル文字の他縦書きモンゴル文字を改良したトド文字を使用する。

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歴史
東胡

中国の春秋戦国時代から代にかけて内モンゴル東部?満州西部に住んでいた遊牧民族。山戎などとともにの北に位置し、それぞれ分散して谷あいに居住していた。秦の始皇帝が中国を統一したころ、東胡は北方で強大となったが、匈奴冒頓単于の侵攻により東胡王が殺され、その国は滅んだ。のちに東胡の生き残りで烏桓山に逃れた勢力は烏桓となり、鮮卑山に逃れた勢力は鮮卑となった。[5]
烏桓・鮮卑

匈奴の冒頓単于によって東胡の国家が滅ぼされると、その残存勢力は烏桓山や鮮卑山に逃れたため、それぞれ烏桓、鮮卑と呼ばれるようになる。烏桓は早くから匈奴の臣下となっていたが、匈奴の壺衍?単于(こえんていぜんう)(在位:紀元前85年 - 紀元前68年)の時代以降、叛服を繰り返すようになり、後漢の時代になるとその臣下となり、後漢の国境警備に当たるようになった。鮮卑も前漢時代は匈奴に属していたが、目立った動きはせず、後漢の時代になってから後漢に対して叛服を繰り返すようになり、北匈奴の西走後のモンゴル高原を占拠し、檀石槐の時代には大帝国を築いた。檀石槐の死後は部族が分裂し、拓跋部慕容部宇文部段部といった勢力が生まれ、五胡十六国時代南北朝時代をもたらした。

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柔然

柔然はもともと鮮卑拓跋部に属していたが、拓跋部が中国へ移住後(北魏)、高車などを吸収してモンゴル高原で勢力を拡大し、可汗(かがん)を中心とする遊牧帝国を築いた。柔然はたびたび中国北部の拓跋氏の王朝北魏や、属民である高車などと衝突したが、6世紀の中頃に鍛鉄奴隷である突厥によって国を奪われてしまう。

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契丹・奚・豆莫婁

契丹4世紀から14世紀にかけて、満州から中央アジアの地域に存在した半農半牧の民族。契丹、豆莫婁室韋は東部鮮卑の流れを汲むとされており、その言語は同じであるとされる。[8]

契丹は10世紀耶律阿保機のもとで国家を整備し、王朝()を築いた。1004年には北宋?淵(せんえん)の盟を結び、北宋から遼へ莫大な財貨が毎年送られるようになると、経済力を付けた遼は東アジアから中央アジアまで勢力を伸ばした強国となった。しかし遼の上層部は次第に堕落し、内部抗争も激しさを増したため、1125年女真族の王朝の侵攻により遼は滅ぼされた。その余勢は中央アジアに逃れ西遼(カラ・キタイ)を建国した。
室韋(三十姓タタル)

室韋・契丹とも中国史書には東胡の子孫であるとか、鮮卑の子孫であると記述されており[9]、室韋の一部族蒙兀室韋(蒙瓦部)がのちのモンゴルであることから、これらの民族系統はモンゴル系と推測される。しかし、大室韋などは「言葉が通じない」とあることから[10]、すべてがモンゴル系というわけではないといえる。
モンゴル部

中国の歴史書に室韋の一部族として「蒙兀室韋」[11]、「蒙瓦部」[12]という漢字名で記されたのがモンゴルの初出である。11世紀になると、「萌古国」という表記で『遼史』に登場し、遼帝国に朝貢していた[13]。このころのモンゴル部族はバイカル湖畔に住んであおり、そのころの指導者はトンビナイ・セチェンと考えられる[14]1125年女真族の金帝国が遼帝国を滅ぼした頃、モンゴル国の初代カンとなったのはトンビナイ・セチェンの子カブル・カンであった。彼は金朝に朝貢した際に罪を犯したり、タタル部族と抗争したりしたため、次のアンバガイ・カンの時にその恨みが返って来て、アンバガイ・カンは金朝に処刑された。


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