モンゴル民族
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ただし、モンゴル族の数は581万人(2000年)に達してモンゴル国の人口を上回っている。漢語漢字を解するなど文化的に漢化が進み、モンゴル語を解さないモンゴル族もいるが、基本的に文字は伝統的な縦書きモンゴル文字を使用する[22]
歴史

モンゴルの歴史モンゴルの歴史
モンゴル高原
??葷粥山戎

月氏匈奴東胡
南匈奴
丁零鮮卑
高車柔然
鉄勒突厥
 東突厥
回鶻
黠戛斯達靼契丹
ナイマンケレイト大遼
(乃蛮)(客烈亦)モンゴル
モンゴル帝国
大元嶺北行省
北元
ハルハオイラト
大清外藩外蒙古
大モンゴル国
モンゴル人民共和国
モンゴル国
詳細は「モンゴルの歴史」を参照
チンギス・カン以前のモンゴル

「モンゴル」という名の部族が歴史上に初めて登場するのは7世紀のことで[23]、中国の歴史書に室韋という集団の一部族として「蒙兀室韋」[24]、「蒙瓦部」[25]という漢字名で記された。彼らは当時大興安嶺山脈の北、アルグン川渓谷に住んでおり、草原の大帝国である突厥可汗国に従属していた。11世紀になると、草原の支配者は契丹族の遼帝国に代わり、かつては一部族にすぎなかった「蒙瓦部」も「萌古国」という一つの国として遼帝国に朝貢するようになった[26]。このころからモンゴル族はザバイカリエ(後バイカル地方)に西進しており、そのころの指導者はトンビナイ・セチェンと考えられる。1125年女真族の金帝国が遼帝国を滅ぼした頃、モンゴル国の初代カンとなったのはトンビナイ・セチェンの子カブル・カンであった。彼は金朝に朝貢した際に罪を犯したり、タタル部族と抗争したりしたため、次のアンバガイ・カンの時にその恨みが返って来て、アンバガイ・カンは金朝に処刑された。その後を継いだクトラ・カンはアンバガイ・カンの仇を討つべく、モンゴル諸氏族を率いて金朝に攻め入り、敵軍を破って多数の略奪品を持ち帰った。これによって彼はモンゴルの吟遊詩人が熱愛する英雄となった。クトラ・カンの後、モンゴルのカンは空位となり、代わってクトラ・カンの甥にあたるイェスゲイ・バアトルキヤン氏族とニルン諸氏族をとりまとめた。彼はその他のモンゴル氏族や金朝やタタル部といった諸勢力と戦争を繰り返したが、志半ばで命を落としてしまう(イェスゲイの死については『元朝秘史』に詳しい)[27][28][29][30]
モンゴル帝国の形成詳細は「モンゴル帝国」を参照

イェスゲイ・バアトルの子テムジンは周辺諸族を取りまとめ、1206年チンギス・カンに即位し、イェケ・モンゴル・ウルス(大モンゴル国)を建国した。通常この政権をモンゴル帝国と呼ぶ。モンゴル帝国はモンゴル高原を統一したのち、周辺の国々も併合していき、東は日本海、西はポーランドハンガリー、南はチベットイランにいたるまでの版図を実現した。しかし、14世紀初頭になると、その巨大な帝国は東アジアの元朝、南ロシアのジョチ・ウルス、西アジアのフレグ・ウルス(イルハン朝)、中央アジアのチャガタイ・ウルス(チャガタイ・ハン国)の4国に分かれ、一種の世界連邦を構成した。そのうち中央政権である元朝が1368年に漢民族の明朝に打倒されると、それぞれの構成国家はそれぞれの歴史を歩むこととなる[31]
モンゴル帝国以降のモンゴル

明朝に打倒された元朝はモンゴル高原へ撤退した。歴史的にはこの政権を北元と呼ぶ。北元のハーンはそれまでのクビライの王統から、アリクブケの王統に代わったが、実権はオイラト部族の手にあった。中国の明朝側からは「蒙古」ではなく「韃靼」と呼ばれ、言葉の上だけでその連続性を否定されていた。ダヤン・ハーンがオイラトを打倒してモンゴルを再統一すると、その領土を6つの大部族(トゥメン)に分割し、これが後のチャハルハルハになっていく。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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