モンゴル民族
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現在はモンゴル国中華人民共和国内モンゴル自治区などにその多くが住んでいる。
名称

「モンゴル」という名称は初め、中国の史書に「蒙兀室韋」[14]や「蒙瓦部」[15]、「萌古国」[16]、「蒙古」[17]などと記され、ペルシア語史料[18]に「???? Mugh?l」と記された。現在、中華人民共和国内モンゴル自治区で使われるモンゴル文字表記では「?????? Mong?ul」、モンゴル国で使われるキリル文字表記では「МонгопBMongol」となっている。

「モンゴル」の意味はラシードゥッディーンの『集史』に「モンゴルとは素朴で脆弱という意味」と記されている。あるいはモンゴル語でモン(mong、強い・勇猛な)とグル(gul、人)から[19]、あるいはムング(銀)の意味とも[20]
モンゴル民族の分布モンゴル国および中華人民共和国におけるモンゴル族の自治区域
清朝によるモンゴル民族の支配体制

清朝に服属したモンゴル民族の多くは、外藩蒙古、内属蒙古、蒙古八旗のいずれかに区分された。外藩蒙古はチンギス・ハンの子孫たち、またはチンギス裔ではない「王公」(=貴族)を領主としてモンゴル草原に遊牧する諸部の総称。地理的には現モンゴル国、中国の内蒙古自治区・青海省新疆ウイグル自治区などに分布する諸集団の大部分を包括した。内属蒙古は、かつてハーン家(チンギス裔の宗家)やアルタン・ハーン家に属し、後に清朝により両家が取りつぶされ、清朝皇帝の直轄とされたチャハル部・帰化城トメト部の2部を指す。蒙古八旗は、1616年から1636年にかけて清朝に個別に服属し、清朝の支配層の最上位に位置する「八旗」の一員として再編されたモンゴル人集団をいう。

チベット高原の中央部に居住し、「七十九族」と呼ばれた遊牧民の集団には、元朝文宗の末裔を称するホル族など、モンゴル系の集団が含まれている。彼らは1723年-24年に清朝の支配下に入り、1732年に「青海」所属の「四十族」と「西藏」所属の「三十九族」に分割され(→詳細は雍正のチベット分割)、四十族は「土司制」、「三十九族」はチベットガンデンポタンのポラネー父子の政権をへて、「駐藏大臣」の属下にうつされた。
ロシアに服属した諸集団

以下の諸集団は、ロシア帝国に服属した。

ブリヤート

トヴァ

カルムイク

「外蒙古」と「内蒙古」

外蒙古は、内蒙古とセットで19世紀後半の中国において出現した概念で、上述の清朝の制度とはまったく別個に、北京を基準とし、ゴビ砂漠をおおよその境界としてモンゴル草原を地理的に「内と外」に区分する概念である。これらの概念を用いたもっとも初期の文献として、伝祁韻士著『皇朝藩部要略』(1839-45編,1884刊)や張穆『蒙古遊牧記』(1859)などがある(→詳細および典拠は外藩蒙古)。モンゴル国の領土はこの両書にいう「外蒙古」にダリガンガ牧場およびアルタイ山脈以西の地(現バヤン・ウルギー州)を加え、タンヌ・ウリャンハイ(現ロシア連邦トゥヴァ共和国)を差し引いた形で成立した。

外蒙古(外蒙古)は、現在も世界的に使われる用語である(英語でOuter Mongoliaと呼ぶ)が、中国の北京を基準としたこの呼称はモンゴル人に嫌われており、モンゴル人自身は「北(アル)モンゴル」と称している。モンゴル国の主要部を占め、住民の8割弱がハルハ族と呼ばれるモンゴル系の民族で占められているため、「ハルハ・モンゴル」とも呼ばれる。モンゴル国は世界で唯一のモンゴル人の独立国家であり、人口は256万人(2005年)、そのうち8割弱がハルハ・モンゴル族、残り2割強にその他モンゴル系、テュルク系民族の16部族が居住する。言語はハルハ・モンゴル語が標準語で、文字は1941年以来キリル文字であるが、民主化後は古来の縦書きモンゴル文字も学校教育で教えられている[21]。詳細は「モンゴル族 (中国)」を参照

現在中国領である内モンゴル自治区は、清朝時代に「内蒙古(ないもうこ)」と呼ばれ、もともとはモンゴル帝国(北元)の中心地でチャハル・モンゴルの支配域であったが、17世紀に清に編入されて以降中国領となっている。現在もなお「内蒙古」と呼ばれているが、上記の理由からモンゴル人自身では「南(オボル)モンゴル」と呼ばれている。人口は外モンゴルのモンゴル国に対し、モンゴル系のモンゴル族が1割であり、残り8割が漢民族で占められてる。ただし、モンゴル族の数は581万人(2000年)に達してモンゴル国の人口を上回っている。漢語漢字を解するなど文化的に漢化が進み、モンゴル語を解さないモンゴル族もいるが、基本的に文字は伝統的な縦書きモンゴル文字を使用する[22]
歴史

モンゴルの歴史モンゴルの歴史
モンゴル高原
??葷粥山戎

月氏匈奴東胡
南匈奴
丁零鮮卑
高車柔然
鉄勒突厥
 東突厥
回鶻
黠戛斯達靼契丹
ナイマンケレイト大遼
(乃蛮)(客烈亦)モンゴル
モンゴル帝国
大元嶺北行省
北元
ハルハオイラト
大清外藩外蒙古
大モンゴル国
モンゴル人民共和国
モンゴル国
詳細は「モンゴルの歴史」を参照
チンギス・カン以前のモンゴル

「モンゴル」という名の部族が歴史上に初めて登場するのは7世紀のことで[23]、中国の歴史書に室韋という集団の一部族として「蒙兀室韋」[24]、「蒙瓦部」[25]という漢字名で記された。彼らは当時大興安嶺山脈の北、アルグン川渓谷に住んでおり、草原の大帝国である突厥可汗国に従属していた。11世紀になると、草原の支配者は契丹族の遼帝国に代わり、かつては一部族にすぎなかった「蒙瓦部」も「萌古国」という一つの国として遼帝国に朝貢するようになった[26]。このころからモンゴル族はザバイカリエ(後バイカル地方)に西進しており、そのころの指導者はトンビナイ・セチェンと考えられる。1125年女真族の金帝国が遼帝国を滅ぼした頃、モンゴル国の初代カンとなったのはトンビナイ・セチェンの子カブル・カンであった。彼は金朝に朝貢した際に罪を犯したり、タタル部族と抗争したりしたため、次のアンバガイ・カンの時にその恨みが返って来て、アンバガイ・カンは金朝に処刑された。その後を継いだクトラ・カンはアンバガイ・カンの仇を討つべく、モンゴル諸氏族を率いて金朝に攻め入り、敵軍を破って多数の略奪品を持ち帰った。これによって彼はモンゴルの吟遊詩人が熱愛する英雄となった。クトラ・カンの後、モンゴルのカンは空位となり、代わってクトラ・カンの甥にあたるイェスゲイ・バアトルキヤン氏族とニルン諸氏族をとりまとめた。


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