モンゴル帝国
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モンゴル帝国(モンゴルていこく)は、モンゴル高原遊牧民を統合したチンギス・カン1206年に創設した遊牧国家ウルス)である。中世モンゴル語ではイェケ・モンゴル・ウルス (????
??????
???? Yeke Mongγol Ulus)すなわち「大モンゴル・ウルス(大蒙古国)」と称した[注釈 1]モンゴル帝国の領土
概要

モンゴル帝国の創始者チンギス・カンとその兄弟・子息たち、『四駿四狗』に代表される部将(ノヤン)たち、及びそれらの後継者たちはモンゴル高原から領土を大きく拡大し、西は東ヨーロッパアナトリア(現在のトルコ)・シリア、南はアフガニスタンチベットミャンマー、東は中国朝鮮半島まで、ユーラシア大陸を横断する帝国を作り上げた[注釈 2]。最盛期の領土面積は約2400万平方キロメートルで、地球上の陸地の約17%を統治し、当時の人口は1億人を超えていた。その領土の範囲は人類史上において大英帝国に次ぐ2番目の巨大さだった[4]

モンゴル帝国は、モンゴル高原に君臨するモンゴル皇帝(カアン、ハーン)を中心に、「アルタン・ウルク(「黄金の一族」の意味)」と呼ばれるチンギス・カンの子孫の王族たちと彼らに従属する部将(ノヤン)たちによって、主に戦功等に応じて各地に分与された領民と領国を支配する国(ウルス)が集まって形成された連合国家の構造をなした[注釈 3]。モンゴル帝国は、「千戸(ミンガン)制度」と呼ばれるテュルク・モンゴル系の騎馬軍団を基礎とし、皇帝の命によって分与されたそれら数十もの千戸軍団を各モンゴル王族や部将たちが管轄し、軍団や征服地域の租税や民政の管理を皇帝直属の財務官僚(ビチクチ)たちが担った。彼らの行動規範は「チンギス・カンの遺訓(ジャサク)」によって律せられ(これを職掌したのが「断事官、ジャルグチ」)、モンゴル皇帝はこの「チンギス・カンの遺訓」に基づき、これらの諸ウルスの存廃と租税管理を最終的に統御する存在でもあった[5]

しかし、1260年に、第4代皇帝モンケの死去に伴い皇位継承戦争が勃発し、その次弟クビライ上都で第5代皇帝としてこれを制して即位したが、当時の主要なモンゴル王族であったジョチ・ウルスベルケ、クビライの実弟フレグチャガタイ家アルグらが相次いで死去したため、モンゴル皇帝を正式に選出する全帝国的な統一クリルタイの開催が事実上不可能になってしまった[6]。そのため、クビライは自らが直接支配できていた中国とモンゴル高原チベットを中心とする、現在の区分でいう東アジア部分の統治機構を整え、あわせてモンケの死去によって中断されていた南宋遠征を完遂させる事で、モンケの後を継いだ事実上のモンゴル皇帝である事を内外にアピールした。この過程で、中央アジアのモンゴル王族たちとの紛争の前線基地と化していたカラコルムに替わり、1271年に帝国の中国方面支配の拠点のひとつであった金朝の旧都・中都の北隣に大都(現在の北京)を建設し、帝国の東半分の地域は事実上クビライとその子孫が領国として継承する体制ができあがった。他の地域もそれぞれの地域の主要な王族たちが領民と領国を囲い込むようになり、13世紀後半、帝国はモンゴル皇帝による全土支配の時代から、徐々にモンゴル皇帝を盟主としジョチ家チャガタイ家オゴデイ家フレグ家のような各地の主要王族を頂点とする諸ウルスの連合による緩やかな「連邦」化が進んで行った。このうち、クビライはモンゴル皇帝直轄の中核国家の国号を大元大モンゴル国と改称するが、その後も皇帝を頂点とする帝国はある程度の繋がりを有した[注釈 4]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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