モンゴル国
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国名

正式名称は、モンゴル語キリル文字)表記で МонгопBУлс(モンゴル・オルス)、ラテン文字転写は Mongol Uls。

日本語の表記はモンゴル国。通称モンゴル。英語ではモンゴリアと呼ばれる。

モンゴル語名「モンゴル・オルス(МонгопBУлс)」の「モンゴル」は民族名で、「オルス/ウルス(Улс)」は「国」を意味する。
歴史詳細は「モンゴルの歴史」を参照

モンゴルの歴史モンゴルの歴史
モンゴル高原
??葷粥山戎

月氏匈奴東胡
南匈奴
丁零鮮卑
高車柔然
鉄勒突厥
 東突厥
回鶻
黠戛斯達靼契丹
ナイマンケレイト大遼
(乃蛮)(客烈亦)モンゴル
モンゴル帝国
大元嶺北行省
北元
ハルハオイラト
大清外藩外蒙古
大モンゴル国
モンゴル人民共和国
モンゴル国

19世紀、外モンゴルから内モンゴルにかけては、清朝の支配下に置かれていた。

20世紀に入ると清朝は北方の自国領の人口密度を高くすることでロシア帝国側の侵略を防ぐ政策を実施し、それまでの辺境への漢人入植制限を廃止した。内モンゴルでは遊牧地が漢人により耕地に変えられ、モンゴル民族のうちに反漢・独立感情が高まり、反漢暴動が頻発した。中には貴族のトクトホ(モンゴル語版、ロシア語版、中国語版)のように「馬賊」となり漢人襲撃を繰り返す者もいた。一方で知識人ハイシャン(中国語版、英語版)らは漢人商人の活動に反発を覚え、いまだ危機感の薄かった外モンゴル地域と連携して独立を達成することを画策。外モンゴル貴族のツェレンチミド(モンゴル語版、中国語版、英語版)らと協力し外モンゴル諸侯に独立のための説得工作を行った。ボグド・ハーン

1911年辛亥革命が起こると、既にハイシャンらの説得工作が功を奏し、独立のための財政援助をロシアに求めていたハルハ地方(外モンゴルの多くの地域)の王侯たちは清からの独立を宣言した(1911年モンゴル革命(英語版))。モンゴルにおけるチベット仏教界で最高権威かつ民族全体のシンボルとして君臨していた化身ラマ(活仏)のジェプツンダンバ・ホトクト8世(ボグド・ハーン)をモンゴル国の君主(ハーン)として推戴し、ボグド・ハーン政権を樹立した。1913年には、チベットとの間で相互承認条約を締結した。統治機構は清朝の整備したものをほぼそのまま利用することで、スムーズな政府の設置ができた。ただ内モンゴルとの連携については、内モンゴル解放軍を派遣し、一時的には内モンゴルの大部分を制圧したが、モンゴルの後ろ盾として経済的・軍事的支援を行っていたロシア帝国が、辛亥革命で成立した中華民国(中国)への配慮から内モンゴルからの撤退を要求、撤収を余儀なくされた。

1915年キャフタ条約で中国の宗主権下での外モンゴル「自治」のみが、清の後を引き継いだ中華民国とロシアによって承認されるが、内モンゴルについてはこの地への進出をうかがっていた日本に配慮して現状維持とされた。また、内モンゴルでも外モンゴルの独立に呼応する動きが見られたが、内モンゴルの大部分の地域が漢人地域になっており中国が手放そうとしなかったこと、モンゴル人の間で統一行動が取れなかったことなどから内外モンゴルの合併には至らず、以後は別々の道を歩むことになる。

1917年ロシア革命が勃発すると、中国は外モンゴルでの勢力回復に乗り出し、1919年には外モンゴルを占領し自治を撤廃。1920年10月、赤軍との内戦で不利な状況に追い込まれていたロマン・ウンゲルン率いる白軍が体制の立て直しのためにモンゴルへと侵入して中国軍を駆逐、ボグド・ハーン政権を復興させた。しかし、ウンゲルンの残虐な行動に人心が離反、そんな中でボドーダンザンスフバートルチョイバルサン民族主義者社会主義者はモンゴル人民党(のちのモンゴル人民革命党)を結成、ソビエト連邦の援助を求めた。これに応じた赤軍や極東共和国軍はモンゴルに介入し、7月にジェプツンタンパ8世を君主としてモンゴル人民政府を樹立した(1921年モンゴル革命(英語版))。こうして立憲君主制国家として新生モンゴルはスタートするも、1924年にジェプツンタンパ8世の死去を契機に人民共和国へと政体を変更、モンゴル人民共和国社会主義国)が成立した。

モンゴル人民共和国は、ダンバドルジ政権(1924年 - 1928年)の下、狭量な社会主義政策にとらわれない開明的諸策を打ち出したが、コミンテルンの指導、ソ連からの圧力により、中ソ対立以後も徹底した親ソ・社会主義路線をとることになる(ソ連側は一時期、モンゴルを第16番目の共和国としてソ連に加えようとしていたとの説もある)。1929年 - 1932年には厳しい宗教弾圧と遊牧の強制農耕化、機械化、集団化など急進的な社会主義政策をとるが、各地で国民の約45パーセントが参加した暴動が発生し、多くのチベット仏教僧、富裕遊牧民が暴動の指導者として虐殺された。その後は急進的な政策はやや緩和され、教育や産業の充実が図られたものの、反革命の廉で粛清された国民はかなりの数に上った。チョイバルサンオイラトキャラバン(20世紀)

1934年にソ連と相互軍事援助協定が締結されるとともに、ソ連の指導者であったスターリンからラマ教寺院の破壊を繰り返し要求されるがゲンデン首相は拒否した[4]1936年にモンゴル秘密警察が設立され、ソ連派のチョイバルサンが首長となり、ゲンデンはソ連に送致され処刑された[4]。また、同1936年3月にはソ連との間でソ蒙相互援助議定書が締結された。1937年から800の修道院が破壊され、約1万7,000名の僧侶が処刑された[4]。同年、大規模なソ連軍が進駐すると、政府・軍部高官・財界首脳ら5万7,000人がゲンデン首相に関わるスパイに関与したとして逮捕され、2万人が処刑された[4]。チョイバルサンは当初バラーディン(ロシア語版)らブリヤート知識人が唱えたモンゴル語ラテン文字化ではなく、キリル文字化を決める。これによって革命前は0.7パーセントだった識字率1960年代には文盲の絶滅を宣言するまでに上昇する。

第二次世界大戦末期(1945年)のソ連対日参戦では、モンゴル人民軍は内モンゴルの東部から西部まで進駐[5]し、その占領下では東モンゴル自治政府内モンゴル人民共和国など内外モンゴル統一運動も盛り上がるも、中華民国が独立承認の条件[6][7]とした外モンゴル独立公民投票とモンゴル人民軍の撤退をチョイバルサンは受け入れる。


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