モンゴルフィエ兄弟
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その上昇力はすさまじく、1782年12月14日に行った最初の実験で綱が足りなくなり制御を失ってしまった。上昇したその仕掛けは約2km漂い続け、落下すると「おばけが落ちてきた」と村人たちの間で大騒ぎになり、破壊された[6]
公開実験アノネーでの最初の公開実験(1783年6月4日)

兄弟は自分達の発明であることを世間に知らしめるため、公開実験を行うことにした。リンネルの内側を薄い紙3枚で補強した球形の気球を作った。内容量は790m3弱で、総重量は225kgである。4つの部分(上のドーム形の部分と、下を3つに分割した部分)に分けて作り、1,800個のボタンでそれらを繋ぎ合わせている。補強のため漁網で外側を覆った。

1783年6月4日、役人を招待した上でアノネーにて最初の公開飛行を行った。袋は1600-2000m(推定)まで上昇し、2kmの距離を約10分に渡って滞空した。その成功はすぐさまパリに伝えられた。エティエンヌはさらなる公開実験を行うためパリに向かった。内気なジョゼフはパリには行かず、アノネーの実家に残った。パリでのエティエンヌは「まじめで高潔な態度で…服装と行儀で謙虚さを表し…」ていた[7]モンゴルフィエ兄弟の気球の模型(サイエンス・ミュージアム

成功した壁紙業者ジャン=バティスト・レヴェイヨン(英語版)と共同で、エティエンヌはタフタ生地に耐火性を持たせるためにミョウバンを含むニスを塗った1,060m3容量の気球を作った。気球は空色で、金色の模様(花模様、黄道十二星座の印、太陽)があしらわれていた。このデザインはレヴェイヨンの関与を示している。公開実験は9月11日、レヴェイヨンの屋敷に近い広場で行われた。間もなく、上空の大気が生物に与える影響についての懸念が生じた。そこで王は実験台として2人の死刑囚を乗せてはどうかと提案してきたが、モンゴルフィエ兄弟はまずヒツジアヒルニワトリを乗せることを決めた。動物たちが生きていれば、上空でも酸素がなくならないと分かるからである(人間が空を飛ぶのは不遜ではないかという聖職者の意見があったので、神罰が下らないことを証明するためだったとも言われる)。1783年9月19日の実験

1783年9月19日、「レヴェイヨン気球」(Aerostat Reveillon)と名付けられた気球にはそれらの生物を入れた籠が吊り下げられた。ヒツジは人間と生理学的に近いと考えられていた。アヒルは鳥なので上空でも死なないだろうと見られており、高度の影響よりも気球そのものの影響を見るために入れられた。ニワトリはほとんど飛べないので、さらなる影響を見るために入れられた。このときの公開実験はヴェルサイユ宮殿で大勢詰め掛けた群衆とフランス王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットの眼前で行われた[8]。気球は約8分間滞空し、3kmほど移動。高度はおよそ460mに達した。その後、墜落することなく着陸した。
有人飛行1786年に描かれた技術データの書き込まれたモンゴルフィエ兄弟の気球

ヴェルサイユでの成功を受け、エティエンヌは再びレヴェイヨンと共同で有人飛行用の1,700m3の気球製作にとりかかった。この気球は高さ約75ft、直径約50ftだった。表面には再びレヴェイヨンが様々な装飾を施した。配色は深い青を背景として、金色の装飾が施されている。フルール・ド・リス、黄道十二宮の印、ルイ16世の顔が描かれた太陽などで荘厳に装飾されている。その下に赤い垂れ幕があり、最下部にイヌワシが描かれている。1783年10月15日、レヴェイヨンの工場の地所から綱で係留した状態で試験飛行が行われ、エティエンヌが史上初の気球に乗った人物になったと見られる。同日、ピラートル・ド・ロジェ(英語版)が2人目として搭乗。ただし係留した状態だったので、高度はせいぜい24mだった[2][3]

1783年11月21日、係留していない熱気球による史上初の有人飛行が行われた。ピラートル・ド・ロジェとフランソワ・ダルランド侯爵の2人が搭乗。パリの西にあるブローニュの森に近いシャトー・ド・ラ・ミュエットの庭から発進し、2人を乗せた気球は910mほどまで上昇し、パリ上空の9kmの距離を25分間にわたって飛行した。気球はパリを囲んでいた壁を越えてビュット=オー=カイユの丘の風車と風車の間に着陸した。着陸した時点でも燃料は十分あり、あと4、5回は飛行できそうだったが、火の粉が飛んで気球表面を焦がしており、気球が燃えることを心配したピラートルがコートで火を消したのだった。

この飛行は一大センセーションを巻き起こし、多数の版画が作られた。背もたれを気球形にした椅子、気球形の置時計、気球の絵が描かれた陶器なども作られた。

1784年初め、リヨンの行政官ジャック・ド・フレッセル(後にパリ市長となり、フランス革命の犠牲となった)の支援で作られた「フレッセル気球」が着陸に失敗し、負傷者を出した。また1785年6月には「ギュスターヴ」と名付けられた気球に初の女性エリザベート・ティブルが搭乗した。
その後発明についての本人の手稿(1784年)


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