モンゴルの樺太侵攻
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^ 中村和之は亦里于が骨嵬と行動をともにしている(宗谷海峡を北上して樺太に入っている)点から北海道島にも居住していたと考えられるが、13世紀の北海道島にツングース系民族が居住していた痕跡はなく、亦里于=ツングース系民族説は成り立たないと指摘した。その上で、亦里于が骨嵬と違って元朝の討伐対象となっていないことに注目し、早くから樺太島に移住し在地化したアイヌ集団が亦里于で、樺太に定住せずに北海道島から渡海を繰り返していたアイヌ集団が骨嵬であろうと推測した(中村2006、111-115頁。)。考古学者の瀬川拓郎は13世紀以前より擦文文化人が樺太島に定住していた痕跡が見られることを指摘し、「アイヌ文化」の成立以前より樺太島に移住していた集団が亦里于となり、「アイヌ文化」の成立後に樺太島に渡海するようになった集団が骨嵬ではないかと推測している[11]
^ 1283年にも女真の請願で鬼国(アイヌか)への遠征が計画されたが、実行されなかった[14]
^ 主なものは1296年(元貞2年)、1297年(大徳元年)、1305年(大徳9年)、1308年(至元元年)など。
^ 『元史』至元二十年七月癸丑(1283年7月26日)条には3度目の日本遠征に備えて軍船を造らせた際に、骨嵬に対する軍役を免除したとの記述もある。
^ 元朝のクビライに仕えたマルコ・ポーロによる『東方見聞録(世界の記述)』にジパングに関する記述がある。ジパングが日本であるかどうかについては異論があるが、ジパングの記述は位置的にも気候的にも明らかに熱帯を想定している。詳しくはジパング#異説の項を参照。
^ なおここに登場する玉善奴・瓦英・多伸奴・亦吉奴などの人名にはアイヌの成人男性の名によく見られる「-ain」「-ainu」などの特徴が見られる。

出典^ 榎森進「十三?十六世紀の東アジアとアイヌ民族―元・明朝とサハリン・アイヌの関係を中心に」『北日本中世史の研究』(羽下徳彦編、1990年吉川弘文館ISBN 978-4642026314)。
^ 遠藤巌「蝦夷安東氏小論」『歴史評論』434、1986年。遠藤「応永初期の蝦夷反乱―中世国家の蝦夷問題によせて」『北からの日本史』(三省堂1988年ISBN 978-4385353241)。
^ 中村1999、179-182頁。
^ 中村1997、145-147頁。
^ a b c 中村2001、177頁。
^ 中村2008、68-69頁。
^ 中村2001、176頁。
^ 中村2008、69頁。
^ a b 『アイヌ民族:歴史と現在』 公益財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構
^ 中村2010、414-415頁。『元史』巻119「木華黎伝」附碩徳伝。
^ 瀬川2008、248-249頁
^元史』「世祖本紀」至元元年十一月丙子(1264年11月25日)条。
^ 『元史』「世祖本紀」至元十年九月壬寅(11月4日)条。
^ 『元史』「世祖本紀」至元十九年十月丁未(11月22日)条
^ 『元史』「世祖本紀」至元二十一年八月辛亥(1284年9月16日)条。中村2010、416頁。
^ 『元史』「世祖本紀」至元二十一年十月辛酉(11月25日)条
^ 『元史』巻13
^ 『元史』「世祖本紀」至元二十三年十月己酉(1286年11月3日)条。
^ 中村2010、418-419頁。その後1314-1319年に屯田は復活している。
^ a b c 中村2001、178頁。
^ 中村2010、421-425頁。
^ a b 『元分類』巻41
^ 瀬川2009、146頁。『元文類』巻41、経世大典序録・招捕・遼陽骨嵬・大徳元年条。
^ 瀬川2008。瀬川2009。
^ 瀬川2009、146頁。
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