モンキーズ
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マイク・ネスミス: (Mike Nesmith、本名:Robert Michael Nesmith,1942年12月30日 - 2021年12月10日) - アイルランド系(ボーカル/ギター

ピーター・トーク: (Peter Tork、本名:Peter Halsten Thorkelson、1942年2月13日 - 2019年2月21日[6]) - ドイツ系 (ボーカル/ベース/オルガン[7]

来歴
結成

1964年イギリス本国とアメリカ国内におけるビートルズの過熱ぶりを目の当たりにしたスクリーン・ジェムス・コロンビアのバート・シュナイダー(英語版)とボブ・ラフェルソンは、アメリカ国内でもスターグループを生み出そうと、ビートルズ主演の『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』をヒントに同様のテレビ番組を制作することを思いつく。音楽業界紙『デイリー・ヴァラエティ』に掲載されたオーディション広告によって若者達約400人が集まり、1965年9月8日カリフォルニア州ロサンゼルスデイヴィー・ジョーンズマイク・ネスミスピーター・トークミッキー・ドレンツの4人がメンバーに選出された。

実際には、オーディション以前にバート・シュナイダーとボブ・ラフェルソンはめぼしいアーティストらに声をかけており、デイヴィーはその時点ですでに参加が決定していた。後年、ザル・ヤノフスキー(英語版)の代わりにラヴィン・スプーンフルに参加したジェリー・イェスターも台本を渡され打診されていたが、当時参加していたモダン・フォーク・カルテットの全員が参加するのでなければ参加できないとして辞退している。

このオーディション参加者の中にはポール・ウィリアムズ、後にクロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングに加入したスティーブン・スティルス[8](不採用になったが、幼馴染のピーター・トークを推薦)、同じくスリー・ドッグ・ナイトのダニー・ハットン、ラヴィン・スプーンフルのジョン・セバスチャン、ヴァン・ダイク・パークスなどがいたという。

選出当時、マイク・ネスミスはマイケル・ブレッシング名義でカントリー・ミュージシャンとして、デイヴィー・ジョーンズはイギリスマンチェスター出身の舞台俳優・歌手として(ビートルズが『エド・サリヴァン・ショー』に初登場した回には番組に端役として出演していた)、かつてミッキー・ブラドックという名前で子役スターとして活躍していたミッキー・ドレンツは大学生として、ピーター・トークはグリニッジ・ヴィレッジでのインディーズミュージシャンとして、それぞれ活動していた。選考は非常に難航し、最終的にオーディションの合格者が決まったのは、テレビシリーズのパイロット版制作に入るデッド・ラインギリギリである1966年1月であった。
第1次ブーム

1966年8月、デビュー曲「恋の終列車 (Last Train to Clarksville)」をリリース。同年9月12日、NBC系列で『ザ・モンキーズ・ショー』が始まる。翌10月に発売されたデビューアルバム『恋の終列車 (The Monkees)』は、テレビとの相乗効果により500万枚を売上げるヒットとなった。以降、4人はレコーディングとテレビシリーズの撮影に追われる日々となる。

1967年1月、第2弾アルバム『アイム・ア・ビリーバー (More Of The Monkees)』をリリース。この頃から制作者サイドとメンバー間の軋轢が目立つようになる。当初、2作目以降はメンバー自身もアルバム制作に関われるという話であったが、モンキーズの音楽部門の責任者であるドン・カーシュナーはこれを一切認めず、ファーストアルバムまでの時点に収録が終わっていながら未発表になっていた自身の音楽出版社所属の楽曲を使用し、スタジオミュージシャンバッキングトラックにボーカルを乗せた音源を使用して制作したアルバムをメンバーの知らないうちに発売した。

さらにカーシュナーは、ニール・ダイアモンドの提供曲『恋はちょっぴり (A Little Bit me, A little Bit you)』を3枚目のシングルとして発売することにしていたが、B面に使用する曲を当初予定していたネスミス作詞・作曲の「どこかで知った娘 (The girl I knew somewhere)」ではなくジェフ・バリーの手による「シー・ハングズ・アウト (She hangs out)」に無断で差し替えて発表する。この暴挙にネスミスが激怒し、当初予定通りの「恋はちょっぴり/どこかで知った娘」のシングル盤を独自に制作。「これこそが本物のサード・シングルだ」として記者会見を開き、マスメディアを巻き込んだクーデターを決行した。
芸能界のアイドルに

クーデターの結果、ドン・カーシュナーは更迭され、カーシュナーが発表しようとしたシングルは業界関係者に配られたサンプル盤の段階で全て回収され、マイクの主張した盤が正式な3枚目のシングルとして発売される。なお、このサンプル盤はその後「幻のシングル」としてコレクターズ・アイテムとなり高値が付けられている。

カーシュナーを追い出したマイクは、代わりに当時「ハッピー・トゥギャザー」のヒットを飛ばしたタートルズのチップ・ダグラス(英語版, 当時は「Douglas Farthing Hatlelid」名義)をプロデューサーに迎えて3作目の『灰色の影 (Headquarters)』を1967年5月にリリースした。この頃にはハーマンズ・ハーミッツに替わって全米No.1の人気グループとなり、イギリスにおいても高い人気を得ていた。

3作目のアルバム『灰色の影』は、前2作とは異なり、チップ・ダグラスとメンバー自身によってプロデュースされ、自分たちの選曲した曲と自作曲が収録された。演奏もホーン・セクションを除いてはすべて自分自身で行なわれたこのアルバムは、テクニックが稚拙なためにガレージパンクのような荒さがあり、レコーディング中のお遊びなども収められた。当時の4人の等身大を表現する作品に仕上がったものの、売り上げは前作を若干下回る(なお、このアルバムの次にチャート・トップに立ったのは『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』である)。その後、撮影、レコーディング、ツアーなどの時間的な制約から、演奏はスタジオミュージシャンを使用する方式に戻った。
世界ツアー

1967年4月頃からカナダ・全米でのツアーを開始。メンバーはその合間にレコーディング、テレビシリーズ撮影という殺人的なスケジュールをこなす。なお、この1967年8月のライブレコーディングは、20年後の1987年に『Live 1967』としてリリースされた。同年11月、『スター・コレクター (Pisces,Aquarius, Capricorn & Jones Ltd)』をリリース。この頃から次作のレコーディングに取り掛かる。

1968年3月、テレビシリーズが終了。その直後の4月に『小鳥と蜂とモンキーズ (The Birds, The Bees and The Monkees)』がリリースされる。同作と前作の『スター・コレクター』でモンキーズは作品的に一つの頂点を極めたが、『小鳥と蜂とモンキーズ』には前作ほどの分かりやすさはなく、直後にテレビシリーズが終了したこともあって、売上げは前作の『スター・コレクター』に及ばなかった。『小鳥と蜂とモンキーズ』は、モンキーズのアルバムで初めてアルバムチャートの1位を逃した作品でもある。

1968年2月から5月にかけては、映画『HEAD』の撮影が行われた。「これまでに作り上げたアイドルとしてのモンキーズをぶち壊す」というボブ・ラフェルソンの意図により、出来上がった作品は細切れのシーンをつなげたパッチワークのような難解な作品となり、同年11月に公開されたものの興行的には失敗に終わる。この作品の脚本ジャック・ニコルソンが手がけ、デニス・ホッパーが出演している。

1968年9月から10月にかけて、太平洋ツアーを公演。9月にはオーストラリアで7公演を務めた後、来日した。羽田空港にはファンの少女らが殺到し大騒ぎとなる。同年10月34日日本武道館で、10月5日京都会館で、10月78日大阪フェスティバルホールでそれぞれ公演した。武道館公演の模様は、当時日本で放送されていた『モンキーズ・ショー』の特別版として放送された(この回はマスターテープが紛失し、その後の再放送では放送されていない)。


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