地中海世界とアラブ世界の一員であり、地中海連合とアラブ連盟とアラブ・マグリブ連合に加盟している。モロッコはサハラ・アラブ民主共和国を自国の一部であるとの立場のため、独立国家として承認していない。1984年にサハラ・アラブ民主共和国のアフリカ統一機構(2002年にアフリカ連合へ発展)加盟に反対して同機構を脱退し、アフリカ大陸唯一のアフリカ連合(AU)非加盟国であったが、2017年1月31日に再加入した。 正式名称はアラビア語で、??????? ????????(ラテン文字転写は、Al-Mamlaka l-Maghribiya:アル=マムラカ・ル=マグリビーヤ)。通称、??????(al-Maghrib:アル・マグリブ)。「マグリブの王国」を意味する。 公式のフランス語表記は、Royaume du Maroc(ロワイヨーム・デュ・マロック)。 通称、Maroc。 公式の英語表記は、Kingdom of Morocco(キングダム・オヴ・モロッコ)。通称、Morocco。 日本語の表記は、モロッコ王国。通称、モロッコ。漢字の当て字は、摩洛哥・馬羅哥・莫羅哥・茂禄子など[8]。 アラビア語の国名にある「マグリブ」は、「日の没する地」「西方」を意味する。「マグリブ」は地域名としては北アフリカ西部を指すが、モロッコはマグリブの中でも最も西の果てにある国と位置付けられる。中世には他のマグリブ地域と区別するために「アル=マグリブ・ル=アクサー」(極西)とも呼ばれていた。 アラビア語以外の多くの言語での国名である「モロッコ」は、以前の首都マラケシュに由来する。 トルコ語での国名は「Fas」で、1925年までの首都フェズに由来する。 先史時代にベルベル人が現在のモロッコに現れた。古代には沿岸部にカルタゴのフェニキア人によって、港湾都市が築かれた。一方で、内陸部ではベルベル系マウリ人
国名
歴史詳細は「モロッコの歴史」を参照
アル=アンダルスのイスラーム化
ローマ帝国が衰退すると、429年にゲルマン系のヴァンダル人がジブラルタル海峡を渡り、アフリカに入った。マウレタニアはユスティニアヌス1世の時代には再び東ローマ帝国の支配下に置かれたが、8世紀初頭にイスラム帝国であるウマイヤ朝が東方から侵攻してモロッコを征服し、モロッコのイスラーム化とアラブ化が始まった。アラブ人はモロッコを拠点にジブラルタルを越え、イベリア半島の西ゴート王国を滅ぼし、アル=アンダルスのイスラーム化を進めた。
788年にアッバース朝での勢力争いに敗れた亡命アラブ人イドリース1世が、イスラーム化したベルベル人の支持を得て、イドリース朝を建国した。また、サハラ交易で栄えたシジルマサにはミドラール朝が成立した。その後、チュニジアから興ったイスマーイール派のファーティマ朝の支配を経た後に、イドリース朝は985年にアル=アンダルスの後ウマイヤ朝に滅ぼされた。
しかし、後ウマイヤ朝は1031年に滅亡し、その支配領域はタイファと呼ばれる中小国家群に分裂した。権力の空白地帯となったモロッコは、南方のセネガル川の流域から興ったムラービト朝の領土となり、1070年には新都マラケシュが建設された。ムラービト朝は南方にも攻勢をかけて1076年にクンビ=サレー(英語版)を攻略してガーナ帝国を滅ぼし、さらに再度北進して、ジブラルタルを越えてレコンキスタ軍と戦い、アル=アンダルスを統一した。
18世紀までムワッヒド朝のヤアクーブ・マンスールの時代に造営されたクトゥビーヤ・モスク。ラス・ナーバス・デ・トローサの戦いの絵図。
1130年にムワッヒド朝が成立すると、1147年にムワッヒド朝はムラービト朝を滅ぼし、アル=アンダルスをも支配した。第3代ヤアクーブ・マンスールの時代にムワッヒド朝は東はリビアにまで勢力を伸ばし、マグリブ一帯を包括する最大版図を確立したが、続くムハンマド・ナースィルは1212年にラス・ナーバス・デ・トローサの戦いでレコンキスタ連合軍に敗れ、アンダルシアの大部分を喪失した。ムワッヒド朝はこの戦いの後に衰退を続け、1269年にマリーン朝によってマラケシュを攻略され、滅亡した。
マリーン朝はフェスに都を置き、しばしばナスル朝を従えるためにアンダルシアに遠征したが、14世紀後半に入ると衰退し、1415年にはアヴィシュ朝ポルトガルのエンリケ航海王子がジブラルタルの対岸のセウタを攻略した。セウタ攻略によって大航海時代が始まった。マリーン朝は1470年に滅亡したが、『旅行記』を著したイブン=バットゥータなどの文化人が活躍した。
マリーン朝の滅亡後、1472年にワッタース朝フェス王国が成立したが、1492年にカトリック両王の下で誕生したスペイン王国がナスル朝を滅ぼしてレコンキスタを完遂すると、ワッタース朝はポルトガルに加え、スペインの脅威をも受けることにもなった。ワッタース朝は衰退し、ポルトガルに攻略されたアガディールなどを奪還したサアド朝(サーディ朝)によってフェスを攻略され、1550年に滅亡した。
サアド朝は、ザイヤーン朝を滅ぼしてアルジェリアにまで進出したオスマン帝国を退け、キリスト教徒との戦いにおいても、1578年にアルカセル・キビールの戦いで侵攻してきたポルトガル軍を破り、ポルトガルの国王セバスティアン1世は戦死した。この事件がきっかけになって1580年にポルトガルはスペイン・ハプスブルク朝に併合された。さらに南方に転じて1591年に、内乱の隙を衝いてトンブクトゥを攻略し、ソンガイ帝国を滅ぼした。しかし、17世紀に入るとサアド朝は急速に衰退し、1659年に滅亡した。
1660年に現在まで続くアラウィー朝が成立した。1757年に即位したムハンマド3世はヨーロッパ諸国との友好政策を採り、デンマークを皮切りに各国と通商協定を結び、1777年には世界で初めてアメリカ合衆国を承認した。 続くスライマーン
フランス資本の定着まで