モルドバ共和国(モルドバきょうわこく、ルーマニア語: Republica Moldova)、通称モルドバ、モルドヴァ(Moldova [mol?dova] ( 音声ファイル))は、東ヨーロッパの共和制国家[1]。
首都はキシナウ。西はルーマニア、北・東・南はウクライナと国境を接し、面積は3万3851平方キロメートルを持つ内陸国である[1]。 モルドバの国土は、歴史的にモルダヴィアと呼ばれた、ウクライナ南西部やルーマニア北東部も含む地域の一部にある。1349年に建国されたボグダニア公国が後にモルダヴィア公国へ発展したものの、1512年にオスマン帝国の属国となった[2]。北から伸張したロシア帝国が度重なる露土戦争でオスマン帝国を圧迫し、ヤシ条約でトランスニストリア南部を、1812年のブカレスト条約ではモルドバの国土の大半に当たるベッサラビアを併合した[2]。1856年、ベッサラビア南部はモルダヴィアに返還され、3年後にモルダヴィアはワラキアと統合してルーマニア公国となったが、1878年に全土がロシア帝国に支配されるようになった。1917年のロシア革命では、ベッサラビアは一時モルダヴィア民主共和国と呼ばれるロシア共和国の自治州となった。1918年2月、モルダヴィア民主共和国は独立を宣言し、同年末、議会の議決を経てルーマニア王国に統合された。この決定にはソビエトロシアも異を唱え、1924年にはウクライナ・ソビエト社会主義共和国内で、ベッサラビア東部の一端に設けられたモルドバ人居住地にモルダヴィア自治共和国を建国した。 1940年、ナチス・ドイツとソビエト連邦が結んだモロトフ・リッベントロップ協定により、ルーマニアはベッサラビアと北ブコヴィナをソ連へ割譲することになり、ベッサラビアの大部分と旧モルダヴィア自治共和国の最西端(ドニエストル川以東)を含むモルダヴィア・ソビエト社会主義共和国(モルダヴィア共和国)が建国されることになった。1991年8月27日、ソビエト連邦の崩壊に伴いモルダヴィア共和国は独立を宣言し、現在の「モルドバ」へと名を改めた。3年後の1994年にモルドバ憲法が採択された。なお、モルドバ領内のドニエストル川東岸のトランスニストリア地域は、自称「沿ドニエストル共和国」の支配下にある。 ソ連崩壊後の工業・農業生産の減少により、サービス業がモルドバ経済の中心となっており、国内総生産(GDP)の60%以上を占めている。一人当たりGDPではヨーロッパで2番目に貧しい国である。モルドバの人間開発指数はヨーロッパで最も低く、世界では90位である。 モルドバは大統領を国家元首とし、首相を政府元首とする議会制の共和制国家である。国際連合、欧州評議会、世界貿易機関(WTO)、欧州安全保障協力機構(OSCE)、GUAM民主主義経済開発機構、独立国家共同体(CIS)、黒海経済協力機構(BSEC)、共同三国(Association Trio 正式名称はルーマニア語でRepublica Moldova [re?publika mol?dova]
概要
国名
日本国政府が採用している正式な表記はモルドバ共和国[2]。通称はモルドバまたはモルドヴァ。旧称はモルダビア[3]またはモルダヴィア。漢字表記は摩爾多瓦で、摩と略される。
公式の英語表記は Moldova [m?l?do?v?] ( 音声ファイル)。
国名はルーマニア北東部の川(モルドバ川(英語版、ルーマニア語版、ロシア語版))の名前に由来する[4]。
ソビエト連邦の構成共和国であったモルダビア・ソビエト社会主義共和国から領土を継承し、1990年に国名をモルダビアからモルドバに変更した[4]。
歴史詳細は「モルドバの歴史(ルーマニア語版、英語版、ドイツ語版、ロシア語版)」を参照「モルダヴィアにおける歴史(ルーマニア語版、英語版)」および「トランスニストリアの歴史(英語版)」も参照
古代古代ダキア
古代からモルドバ平原にダキア人がいたが、その後やってきたローマ人入植者も加わりこの地帯独自の文化が形成された。271年のローマ帝国軍撤退後は、ヨーロッパとアジアをつなぐという戦略上重要な位置にあるためキエフのルーシ、モンゴル系民族などの様々な侵略を受けた。ただしロシア側は、民族大移動時代にスラブ人がこの地域にたどりついた時、タタール人しか住んでいなかったと主張している。この辺はルーマニア北西部トランシルヴァニア地方をめぐる、ハンガリーとの歴史認識の違いに似ている。 中世には、モルダヴィア公国の東部を構成していた。16世紀にはモルダヴィアはオスマン帝国宗主権下の属国になったが、他のバルカン半島諸国と違って部分的な支配だった。
中世時代