モルドバ
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

^ 世界の国々D、260頁。

モルドバ共和国(モルドバきょうわこく、ルーマニア語: Republica Moldova)、通称モルドバ、モルドヴァ(Moldova [mol?dova] ( 音声ファイル))は、東ヨーロッパ共和制国家[1]

首都キシナウ。西はルーマニア、北・東・南はウクライナと国境を接し、面積は3万3851平方キロメートルを持つ内陸国である[1]
概要

モルドバの国土は、歴史的にモルダヴィアと呼ばれた、ウクライナ南西部やルーマニア北東部も含む地域の一部にある。1349年に建国されたボグダニア公国が後にモルダヴィア公国へ発展したものの、1512年にオスマン帝国属国となった[2]。北から伸張したロシア帝国が度重なる露土戦争でオスマン帝国を圧迫し、ヤシ条約でトランスニストリア南部を、1812年のブカレスト条約ではモルドバの国土の大半に当たるベッサラビアを併合した[2]。1856年、ベッサラビア南部はモルダヴィアに返還され、3年後にモルダヴィアはワラキアと統合してルーマニア公国となったが、1878年に全土がロシア帝国に支配されるようになった。1917年のロシア革命では、ベッサラビアは一時モルダヴィア民主共和国と呼ばれるロシア共和国自治州となった。1918年2月、モルダヴィア民主共和国は独立を宣言し、同年末、議会の議決を経てルーマニア王国に統合された。この決定にはソビエトロシアも異を唱え、1924年にはウクライナ・ソビエト社会主義共和国内で、ベッサラビア東部の一端に設けられたモルドバ人居住地にモルダヴィア自治共和国を建国した。

1940年、ナチス・ドイツソビエト連邦が結んだモロトフ・リッベントロップ協定により、ルーマニアはベッサラビアと北ブコヴィナをソ連へ割譲することになり、ベッサラビアの大部分と旧モルダヴィア自治共和国の最西端(ドニエストル川以東)を含むモルダヴィア・ソビエト社会主義共和国(モルダヴィア共和国)が建国されることになった。1991年8月27日、ソビエト連邦の崩壊に伴いモルダヴィア共和国は独立を宣言し、現在の「モルドバ」へと名を改めた。3年後の1994年にモルドバ憲法が採択された。なお、モルドバ領内のドニエストル川東岸のトランスニストリア地域は、自称「沿ドニエストル共和国」の支配下にある。

ソ連崩壊後の工業・農業生産の減少により、サービス業がモルドバ経済の中心となっており、国内総生産(GDP)の60%以上を占めている。一人当たりGDPではヨーロッパで2番目に貧しい国である。モルドバの人間開発指数はヨーロッパで最も低く、世界では90位である。

モルドバは大統領国家元首とし、首相を政府元首とする議会制共和制国家である。国際連合欧州評議会世界貿易機関(WTO)、欧州安全保障協力機構(OSCE)、GUAM民主主義経済開発機構独立国家共同体(CIS)、黒海経済協力機構(BSEC)、共同三国(Association Trio(英語版))のメンバー国である。
国名

正式名称はルーマニア語でRepublica Moldova [re?publika mol?dova] ( 音声ファイル)。日本語表記での近似発音は「モルドヴァ」。

日本国政府が採用している正式な表記はモルドバ共和国[2]。通称はモルドバまたはモルドヴァ。旧称はモルダビア[3]またはモルダヴィア。漢字表記は摩爾多瓦で、摩と略される。

公式の英語表記は Moldova [m?l?do?v?] ( 音声ファイル)。

国名はルーマニア北東部の川(モルドバ川(英語版、ルーマニア語版、ロシア語版))の名前に由来する[4]

ソビエト連邦の構成共和国であったモルダビア・ソビエト社会主義共和国から領土を継承し、1990年に国名をモルダビアからモルドバに変更した[4]
歴史詳細は「モルドバの歴史(ルーマニア語版、英語版、ドイツ語版、ロシア語版)」を参照「モルダヴィアにおける歴史(ルーマニア語版、英語版)」および「トランスニストリアの歴史(英語版)」も参照
古代古代ダキア

古代からモルドバ平原にダキア人がいたが、その後やってきたローマ人入植者も加わりこの地帯独自の文化が形成された。271年ローマ帝国軍撤退後は、ヨーロッパとアジアをつなぐという戦略上重要な位置にあるためキエフルーシモンゴル系民族などの様々な侵略を受けた。ただしロシア側は、民族大移動時代にスラブ人がこの地域にたどりついた時、タタール人しか住んでいなかったと主張している。この辺はルーマニア北西部トランシルヴァニア地方をめぐる、ハンガリーとの歴史認識の違いに似ている。
中世時代

中世には、モルダヴィア公国の東部を構成していた。16世紀にはモルダヴィアはオスマン帝国宗主権下の属国になったが、他のバルカン半島諸国と違って部分的な支配だった。露土戦争の結果、ブカレスト条約により1812年からベッサラビアとして帝政ロシアへ併合される。やがて第一次世界大戦が勃発し、モルダビアは戦乱に巻き込まれていく。
世界大戦時代ベッサラビア(モルドバ)を含んだ大ルーマニア1930年

戦乱真っ只中の1918年モルダヴィア民主共和国として独立宣言が行なわれたが、ドイツ帝国ルーマニア王国ウクライナ人民共和国ボルシェビキ・ロシアとの分離講和合意の調印後、同国の国民からルーマニア王国との連合を望む意思が強まったことや独立宣言から2週間近く経った2月26日(旧2月13日)にルーマニア王国軍が首都キシナウへ侵攻してきたとの報告により、それに促される形で同国指導部(長官会議)はルーマニア王国との連合を決定した。民主共和国という形で一度は独立を実現したモルダビアだったが、この出来事によって同国はその存在が潰えることとなり、同年4月9日にモルダビアはベッサラビアとして独立宣言を行い、同日からルーマニア王国の一部となる。 

第一次世界大戦終了後、嘗ての宗主国であった帝政ロシアがロシア内戦を経て滅亡。するとこれに代わる形でボリシェビキ・ロシアが主導するソビエトへ権力が集中され1922年ソビエト連邦が誕生。その傍ら、先のロシアでの革命の影響により、ルーマニア王国内で共産主義勢力が伸長。さらに当時の国王カロル2世が政府を解散させたことから、ルーマニアは共産勢力、右派の鉄衛団王党派の三つ巴へと変貌し、不安定な政情となった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:211 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef