モリエール
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その勢いを削ぐためにブルゴーニュ座の座長は、マレー座の団員を大量に引き抜く策略に出て、それを見事に成功させたのだった。以上がモリエールらが盛名座を起こした際(1643年ころ)のパリにおける演劇事情であるが、マレー座が勢いをずいぶん削がれた隙を突いて、成功を目論んだのかもしれない。少なくとも、抱える劇団員の数で考えれば、十分マレー座に取って代わることは可能であった[13]

パリで興行を行うことができたのは1644年1月1日のことであった。座長のマドレーヌは劇団結成前から有名で人気のあった女優であったため、初めのうちはそれなりに客を集めるのに成功した。その上、同月13日にはマレー劇場が火災で消失するなど、盛名座を取り巻く状況は好転していくかのように思われた。ところが、劇団の改装に多額の借金をした上に、想定以上に時間がかかったため、経営が苦しくなっていった。これは、盛名座が専ら悲劇を上演にかけていたのも一因である。座長、副座長ともに悲劇を好んでいたためにそのようにしていたのだが、当時悲劇で評判を得ていたブルゴーニュ劇場に対抗できなかったのである[14][12]

モリエールは金策のために東奔西走し、あちこちで借金を重ねたが、ついに退団者が出てしまった。12月19日には、経費削減のためにさらに借賃の安いジュ・ド・ポームに移るが、状況は好転しなかった。1645年には座長格に昇格したが、このころにはマレー座がそれまで以上の機能を持つ劇場を新築し、再出発していた。深刻な財政難に陥った劇団はいよいよ追い詰められ、4月には借金が焦げ付くことを恐れた債権者から訴えられてしまった。借金のために劇場は差し押さえに遭い、盛名座は完全に活動停止に追い込まれた。ところが、それだけでは済まなかった。同年8月2日には、142リーヴルの返済不可能な借金のために、モリエールが劇団の代表者としてついに投獄されてしまった[14][15][12]

父親が保釈金を出してくれたおかげで、モリエールは幸いにも数日で出獄することができた。しかし団員として残ったのは彼を含めて5人だけで、そこに新加入の2人を含めて総勢7人での再出発となった。しかし、借金のためにパリにいられなくなったので一行はボルドーへ赴いた。13年に及ぶ南フランス巡業の始まりである。ボルドーでギュイエンヌ総督エペルノン公爵の庇護を受けることに成功し、盛名座は公爵が所有していたデュフレーヌ劇団と合併した。1645年の年末、もしくは46年の年頭のことである。こうして盛名座は解散、幕を下ろしたのであった[16][15][17]
南フランス修業時代南フランス修業中の軌跡

劇団の看板女優たち。左からマルキーズ・デュ・パルクカトリーヌ・ド・ブリーアルマンド・ベジャールマドレーヌ・ベジャール








17世紀のフランスには、地方を巡業を主とする劇団が200以上、様々な劇団を渡り歩く役者も1000人は存在したという。数多くある劇団のうち、20ほどの劇団のみが王侯貴族の手厚い庇護を獲得していたが、モリエールらが加わったデュフレーヌ劇団もまさにこうした劇団のひとつであった[18]

南フランス巡業時代についてあまり詳しくはわかっていないが、1647年の秋にオービジュー伯爵の招きに応じてトゥールーズへ赴き、公演を行っている。同年にアルビカルカッソンヌなどでも公演をこなし、48年にはナントフォントネー=ル=コント、49年にポワチエアングレームリモージュ、トゥールーズ、モンペリエナルボンヌを巡業し、興行を行った[19]

1650年にはラングドック地方の議会がペズナスで開催された為、会期中に街に滞在する参加者たちの退屈しのぎとして3か月間の契約で街から招聘され、興行を行っている。この際、ペズナスから謝礼金4000リーヴルが贈られ、それに対するモリエールの署名入り受取書[注釈 1]が残されているため、およそこの時期に劇団の座長に就任したようである。同年にエペルノン公の不興を買い、庇護を失った。また、リヨンに拠点を据え、ここから巡業先へ出向くようになった。このころ、カトリーヌ・ド・ブリー、ならびにアルマンド・ベジャールが劇団に加入。アルマンドはムヌー嬢なる芸名の子役としての入団である。彼女は後にモリエールの妻となったが、そもそも彼女は誰の子供なのか、モリエールとその愛人マドレーヌ・ベジャールとはどういった関係なのかを巡って論争が行われてきたが、未だに決着はついていない[20][15]

1652年末にはリヨンにて、コルネイユの音楽付き仕掛け芝居『アンドロメード』を上演している。この作品は1650年にパリで上演され、大成功を収めた作品で、リヨンでの上演においてはモリエールが空飛ぶ英雄のペルセを、マドレーヌ・ベジャールがヒロイン役を演じている。『アンドロメード』の序幕の舞台装置は、モリエールが後々制作する作品『ドン・ジュアン』や『プシシェ』に影響を与えている。パリで大流行していた音楽付き仕掛け芝居が持つ魅力に、モリエールが着目するきっかけを与えたという意味で、この上演の意義は極めて大きい[21]

このころ、マルキーズ・デュ・パルクが劇団に加入した。カトリーヌ・ド・ブリーと揃って2人とものちに劇団の看板女優となり、17世紀を代表する屈指の名女優になった。マルキーズは大変な美貌の持ち主で、モリエールだけでなく、コルネイユやラシーヌなど有名無名を問わず、ありとあらゆる男性の心を惹きつける女性であった。その美貌によって、モリエールは助けられたこともあった[19][15]

1653年には、かつてコレージュ・ド・クレルモンでの学友だったコンティ公の招待を受けて、別荘があるペズナスへ赴いた。コンティ公はフロンドの乱で敗北して以降、居城にこもり、ひたすら快楽にふけっていた。この年、愛人であるカルヴィモン夫人(ボルドー高等法院の評定官の妻であった)を喜ばせるために、劇団を呼び寄せて芝居を楽しもうと考えていたのだった。しかしいざ一行が到着すると、既に「コルミエ劇団」がカルヴィモン夫人に贈り物をして上演の契約に成功しており、一行はコンティ公に冷たくあしらわれた。愛人の言いなりだったコンティ公は、モリエールの劇団にはもはや関心がなかったのである[22]

かかった旅費すら出してもらえそうにない冷たい態度に困ったモリエールは、仕方なくしばらくペズナスで芝居を行うことにした。コンティ公の秘書を務めていた詩人・サラザン(Jean=Francois Sarasin)はこの芝居を見て、マルキーズの美貌に惹かれ、何とかして劇団をこの地に留めたいと考えた。真正面から「劇団を変えてください」などと言うわけにもいかないので、コルミエ劇団とモリエールらの劇団を競合するようにそそのかし、カルヴィモン夫人にモリエールの劇団の方がいかに優れているかを説いて納得させたのだった。こうして、マルキーズの美貌に助けられて、モリエールの劇団はコンティ公の庇護を獲得したのである。これによって劇団の財政はますます安定し、人気も高まっていった[23][15][24][25]

1655年には、モリエールの演劇人生を考える上で重要な作品が2つ、『粗忽者』と『相容れないものたちのバレエ』が上演された。『粗忽者』は初の本格的な自作の喜劇作品であった。テキストが現存する作品に絞って考えると、彼はこれまでに既に2作品を書いているが、当時の慣習として「喜劇」というのはおよそ3?5幕からなる作品のことを指したため、これが初の喜劇となった[26]。コンティ公の御前で、モンペリエにて上演された『相容れないものたちのバレエ』は、コメディ=バレの前身と考えられる作品である。宮廷バレエはルイ13世の時代から非常にもてはやされたジャンルであったが、音楽と踊りが融合したこの演劇形態に早くからモリエールが着目していたことを示す作品である。このバレエは合作で、モリエール1人の手によるものではない。モリエールは構想段階から制作に関わり、テキストの一部を執筆したほか、2つの役をこなしたという[27][26]

同年7月には作曲家のシャルル・ダスシと協力して、『クリスチーヌ・ド・フランスに捧げる歌』を制作している。


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