モラビア
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

902年から906年頃にかけて行われたマジャール人の攻撃はモラヴィア王国に大打撃を与え、王国は崩壊した[12]20世紀前半までモラヴィア王国の存在は文書史料でしか確認できなかったが、第二次世界大戦後に実施された発掘調査によってモラヴァ川沿いの遺跡が多く発見され、有力な国家の実在が立証された[13]

モラヴィア王国が崩壊した後、モラヴィアはボヘミアプシェミスル朝の支配を受け、1029年頃にボヘミア王国に編入される[1]1063年オロモウツに司教座が設置され、オロモウツ司教は各地に割拠する豪族のまとめ役となった[14]1182年神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世はモラヴィアを辺境伯領に昇格させ[1]、ボヘミア王かプシェミスル家の人間が辺境伯となった[15]1187年にオロモウツが辺境伯領の首都に定められ、1350年からはブルノと首都機能を分け合った[16]。また、12世紀から13世紀にかけては、ボヘミアと同様にドイツ人による東方植民が盛んに行われ、手工業、鉱山業が発達した[1]

1526年モハーチの戦いでハンガリー=ボヘミア王ラヨシュ2世(ルドヴィーク)が敗死した後、モラヴィアはボヘミア、ハンガリーと同様にハプスブルク家の支配下に組み入れられる。ハプスブルク家がモラヴィアで布いた強い中央集権化政策はボヘミアとの地域的・民族的一体性を薄め[1]、ハプスブルク家の本拠地であるウィーンとの関係を深めた[15]1620年ビーラー・ホラの戦いではモラヴィアは反ハプスブルク蜂起への参加を躊躇するが、ボヘミア軍の力を背景とするクーデターによって反乱への参加を決定した[15]三十年戦争において、1642年から1650年にかけてオロモウツがスウェーデンに占領されたため、モラヴィアの首都はブルノに移される[17]

1918年チェコスロバキア共和国がオーストリアから独立した際、モラヴィアはチェコスロバキアの一地方となる。1939年チェコスロバキア解体により、モラヴィアはボヘミアとともにドイツの保護領(ベーメン・メーレン保護領)となる。1945年ナチス・ドイツが崩壊した後、モラヴィアは再びチェコスロバキアに編入された。共産主義政権下では州制度が廃止されたために行政単位としてのモラヴィアが消滅し、ボヘミア・モラヴィア間の歴史的境界は大きく変化する[15]

1989年ビロード革命、続くチェコとスロバキアの分裂の機運の高まりの中でモラヴィアでも地域自治を求める運動が活発化する[1]1990年にモラヴィア自治の復興を掲げる自治的民主主義運動=モラヴァ・スレスコ協会(HSD-SMS)が連邦議会選で全体の約9%、チェコ国民評議会選では全体の約10%の票を獲得した[15]。しかし、有能な指導者を欠くHSD-SMSは政治的失敗を繰り返し、モラヴィアの住民の支持を失った[15]

1993年のチェコスロバキアの解体後(ビロード離婚)、モラヴィアはチェコ共和国に属する。
住民

モラヴィアの言語民族はチェコと区別されることはないが、少なくとも19世紀まではモラヴィアの住民は自分たちは「チェコ人」ではなくモラヴィア人であると認識していた[4]

モラヴィアはボヘミアと同じく聖ヴァーツラフの王冠に帰属する土地とされ、ボヘミアと強い繋がりを持つようになるが、ハプスブルク家の支配下では特に都市部でドイツ的な性格が強まっていった[15]。19世紀前半のモラヴィアの住民は漠然とした形でモラヴィアへの帰属意識を持ち、自らはチェコ人ではなくモラヴィア人であり、モラヴィア語(英語版)を話すと考えていた[15]。19世紀のチェコ民族覚醒(再生)期にはモラヴィア辺境伯領の独自性が唱えられたが[1]、民族覚醒運動の中でも「モラヴィア民族」は形成されなかった[15]。モラヴィアの各地方には異なる方言と習俗が存在し、明確な「モラヴィア性」が定義されることはなかった[15]。モラヴィアに独自の拠点を持たないスラヴ系知識人はプラハを拠り所とするようになり、その結果モラヴィアはボヘミアの民族運動の影響を大きく受ける[15]。一部のモラヴィアの愛国主義者はモラヴィア語、モラヴィア民族の形成を主張するが、プラハの知識人から厳しい批判を受け、彼らの試みは失敗に終わった[15]。19世紀後半から20世紀にかけての期間、モラヴィアのスラヴ系住民は「チェコ人」としてのアイデンティティを受け入れ始めるが、彼らが元々持っていたモラヴィア人としての意識は完全に失われることはなかった[15]
経済

モラヴィア北部の森林地帯は林業の中心となっており、中央低地では小麦亜麻、ビート、南部ではライ麦が栽培されている[1]。また、モラヴィア南部はワインの産地として知られている[18]

モラヴィアの工業はモラヴァ川とオドラ川流域に集中している[1]オストラヴァを中心とする北部地域では豊富に産出される石炭鉄鉱石を利用した鉄鋼業が発達し、チェコ国内で最も多くの鉄鋼が生産される地域となっている[1]。オロモウツ、プロスチェヨフ、プシェロフを中心とする中部モラヴィア工業地区のほか、製靴で知られるズリーン、機械・羊毛・木工・食品加工業が活発なブルノを中心とする工業地区が広がる[1]
文化

民謡、慣習、食文化などのモラヴィアの文化はボヘミアとスロバキアの中間に位置する[19]。モラヴィアの農業地帯であるハナー地方は民族衣装、独特の方言で知られている[20]

モラヴィア東部からスロバキアにかけての地域は、独特の民俗音楽が保存された地域として知られており[21]、モラヴィアの音楽にはハンガリー音楽の要素も見受けられる[8]。独特の音楽はモラヴィア出身のレオシュ・ヤナーチェクヴィーチェスラフ・ノヴァークアロイス・ハーバらの関心を引き付けた[21]。19世紀にはスシルによって民謡の歌詞、音符を記録した『メーレン民衆歌謡』が発表された。
有名な出身者

グイード・アードラー - 音楽学者。ユダヤ系

カウニッツ

クルト・ゲーデル

ヤン・アーモス・コメンスキー(コメニウス、ヨハン・アモス・コメニウス)

エーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルト - 作曲家。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:46 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef