モラヴィアはボヘミアと同じく聖ヴァーツラフの王冠に帰属する土地とされ、ボヘミアと強い繋がりを持つようになるが、ハプスブルク家の支配下では特に都市部でドイツ的な性格が強まっていった[15]。19世紀前半のモラヴィアの住民は漠然とした形でモラヴィアへの帰属意識を持ち、自らはチェコ人ではなくモラヴィア人であり、モラヴィア語(英語版)を話すと考えていた[15]。19世紀のチェコ民族覚醒(再生)期にはモラヴィア辺境伯領の独自性が唱えられたが[1]、民族覚醒運動の中でも「モラヴィア民族」は形成されなかった[15]。モラヴィアの各地方には異なる方言と習俗が存在し、明確な「モラヴィア性」が定義されることはなかった[15]。モラヴィアに独自の拠点を持たないスラヴ系知識人はプラハを拠り所とするようになり、その結果モラヴィアはボヘミアの民族運動の影響を大きく受ける[15]。一部のモラヴィアの愛国主義者はモラヴィア語、モラヴィア民族の形成を主張するが、プラハの知識人から厳しい批判を受け、彼らの試みは失敗に終わった[15]。19世紀後半から20世紀にかけての期間、モラヴィアのスラヴ系住民は「チェコ人」としてのアイデンティティを受け入れ始めるが、彼らが元々持っていたモラヴィア人としての意識は完全に失われることはなかった[15]。 モラヴィア北部の森林地帯は林業の中心となっており、中央低地では小麦、亜麻、ビート、南部ではライ麦が栽培されている[1]。また、モラヴィア南部はワインの産地として知られている[18]。 モラヴィアの工業はモラヴァ川とオドラ川流域に集中している[1]。オストラヴァを中心とする北部地域では豊富に産出される石炭と鉄鉱石を利用した鉄鋼業が発達し、チェコ国内で最も多くの鉄鋼が生産される地域となっている[1]。オロモウツ、プロスチェヨフ、プシェロフ 民謡、慣習、食文化などのモラヴィアの文化はボヘミアとスロバキアの中間に位置する[19]。モラヴィアの農業地帯であるハナー地方は民族衣装、独特の方言で知られている[20]。 モラヴィア東部からスロバキアにかけての地域は、独特の民俗音楽が保存された地域として知られており[21]、モラヴィアの音楽にはハンガリー音楽の要素も見受けられる[8]。独特の音楽はモラヴィア出身のレオシュ・ヤナーチェク、ヴィーチェスラフ・ノヴァーク、アロイス・ハーバらの関心を引き付けた[21]。19世紀にはスシルによって民謡の歌詞、音符を記録した『メーレン民衆歌謡』が発表された。
経済
文化
有名な出身者
グイード・アードラー - 音楽学者。ユダヤ系
カウニッツ家
クルト・ゲーデル
ヤン・アーモス・コメンスキー(コメニウス、ヨハン・アモス・コメニウス)
エーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルト - 作曲家。ユダヤ系
ジョーゼフ・A・シュンペーター - 経済学者
レオ・ファル - 作曲家。ユダヤ系
トーマス・ロシツキー - サッカー選手
エドムント・フッサール - 哲学者。ユダヤ系
ジギスムント・シュローモ・フロイト(後改名しジークムント・フロイト) - 精神分析学創始者の精神医学者。ユダヤ系
エルンスト・マッハ - 哲学者、物理学者。
アルフォンス・ムハ(フランス語名アルフォンス・ミュシャ) - アール・ヌーヴォーを代表するグラフィックデザイナー
グレゴール・ヨハン・メンデル
レオシュ・ヤナーチェク - 作曲家
ヨーゼフ・ラデツキー伯爵
アドルフ・ロース - 建築家
フランティシェク・パラツキー - 政治家。歴史家
ベンジャミン・ヘイン - 植物学者
カール・レンナー - オーストリアの政治家
ミラン・クンデラ
エミール・ザトペック
イヴァナ・トランプ
ヨープスト・フォン・メーレン
トマーシュ・マサリク
脚注[脚注の使い方]^ a b c d e f g h i j k l m n o 稲野「モラビア」『東欧を知る事典』新版、574-575頁
^ 木内『ヨーロッパ』3、87頁
^ a b 木内『ヨーロッパ』3、89頁
^ a b 薩摩『図説 チェコとスロヴァキア』、29頁
^ 森安『スラブ民族と東欧ロシア』、21頁
^ 森安『スラブ民族と東欧ロシア』、23頁
^ 森安『スラブ民族と東欧ロシア』、44頁
^ a b 森安『スラブ民族と東欧ロシア』、49頁
^ 薩摩『物語 チェコの歴史』、7頁
^ 森安『スラブ民族と東欧ロシア』、162頁
^ a b c 薩摩秀登「キュリロス、メトディオス、ヴァーツラフ」『チェコとスロヴァキアを知るための56章』第2版、31-35頁