7世紀前半、アヴァール人に服従していたモラヴィアのスラヴ人はボヘミアのスラヴ人、パンノニアのスロベニア人とともにフランク人商人のサモ(英語版)の反乱に参加し、王国を建てる[8]。サモの王国は領土をラウジッツ地方に拡大するが、658年にサモが没した後、アヴァール人によって滅ぼされた。
アヴァール人の国家が崩壊した後、9世紀にモラヴァ川流域に拠点を置く豪族のモイミールと彼の一族に率いられた「モラヴィア人」は勢力を拡大し、国家としての形式を備えるようになっていた[9]。チェコ、スロバキアを中心とするモラヴィア王国の最大版図はポーランド、ハンガリー、オーストリアの一部を含み、モラヴィア地方と区別するために「大モラヴィア王国」の名前で呼ばれることもある[10]。東フランク王国やイタリアのキリスト教聖職者がモラヴィアで布教活動を行っていたがそれぞれの教える内容が異なり、混乱を収めるためにモラヴィア公ラスチスラフはビザンツ帝国(東ローマ帝国)に宣教師の派遣を要請した[11]。要請に応じてテッサロニキの修道士キュリロスとメトディオスの兄弟が派遣され、グラゴール文字を用いた布教、聖職者の育成が行われた[11]。885年にメトディオスが没した後、彼が育てた弟子は追放され、教会組織も崩壊する[11]。9世紀後半、東方に居住していた遊牧民族マジャール人がブルガリアの攻撃を受けてパンノニア盆地に移り、901年にモラヴィア王国は東フランク王国と反マジャールの同盟を締結する[12]。902年から906年頃にかけて行われたマジャール人の攻撃はモラヴィア王国に大打撃を与え、王国は崩壊した[12]。20世紀前半までモラヴィア王国の存在は文書史料でしか確認できなかったが、第二次世界大戦後に実施された発掘調査によってモラヴァ川沿いの遺跡が多く発見され、有力な国家の実在が立証された[13]。
モラヴィア王国が崩壊した後、モラヴィアはボヘミアのプシェミスル朝の支配を受け、1029年頃にボヘミア王国に編入される[1]。1063年にオロモウツに司教座が設置され、オロモウツ司教は各地に割拠する豪族のまとめ役となった[14]。1182年に神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世はモラヴィアを辺境伯領に昇格させ[1]、ボヘミア王かプシェミスル家の人間が辺境伯となった[15]。1187年にオロモウツが辺境伯領の首都に定められ、1350年からはブルノと首都機能を分け合った[16]。また、12世紀から13世紀にかけては、ボヘミアと同様にドイツ人による東方植民が盛んに行われ、手工業、鉱山業が発達した[1]。
1526年のモハーチの戦いでハンガリー=ボヘミア王ラヨシュ2世(ルドヴィーク)が敗死した後、モラヴィアはボヘミア、ハンガリーと同様にハプスブルク家の支配下に組み入れられる。ハプスブルク家がモラヴィアで布いた強い中央集権化政策はボヘミアとの地域的・民族的一体性を薄め[1]、ハプスブルク家の本拠地であるウィーンとの関係を深めた[15]。1620年のビーラー・ホラの戦いではモラヴィアは反ハプスブルク蜂起への参加を躊躇するが、ボヘミア軍の力を背景とするクーデターによって反乱への参加を決定した[15]。三十年戦争において、1642年から1650年にかけてオロモウツがスウェーデンに占領されたため、モラヴィアの首都はブルノに移される[17]。
1918年にチェコスロバキア共和国がオーストリアから独立した際、モラヴィアはチェコスロバキアの一地方となる。1939年のチェコスロバキア解体により、モラヴィアはボヘミアとともにドイツの保護領(ベーメン・メーレン保護領)となる。1945年にナチス・ドイツが崩壊した後、モラヴィアは再びチェコスロバキアに編入された。共産主義政権下では州制度が廃止されたために行政単位としてのモラヴィアが消滅し、ボヘミア・モラヴィア間の歴史的境界は大きく変化する[15]。
1989年のビロード革命、続くチェコとスロバキアの分裂の機運の高まりの中でモラヴィアでも地域自治を求める運動が活発化する[1]。1990年にモラヴィア自治の復興を掲げる自治的民主主義運動=モラヴァ・スレスコ協会(HSD-SMS)が連邦議会選で全体の約9%、チェコ国民評議会選では全体の約10%の票を獲得した[15]。しかし、有能な指導者を欠くHSD-SMSは政治的失敗を繰り返し、モラヴィアの住民の支持を失った[15]。
1993年のチェコスロバキアの解体後(ビロード離婚)、モラヴィアはチェコ共和国に属する。 モラヴィアの言語、民族はチェコと区別されることはないが、少なくとも19世紀まではモラヴィアの住民は自分たちは「チェコ人」ではなくモラヴィア人であると認識していた[4]。 モラヴィアはボヘミアと同じく聖ヴァーツラフの王冠に帰属する土地とされ、ボヘミアと強い繋がりを持つようになるが、ハプスブルク家の支配下では特に都市部でドイツ的な性格が強まっていった[15]。19世紀前半のモラヴィアの住民は漠然とした形でモラヴィアへの帰属意識を持ち、自らはチェコ人ではなくモラヴィア人であり、モラヴィア語
住民