モラヴィア王国が崩壊した後、モラヴィアはボヘミアのプシェミスル朝の支配を受け、1029年頃にボヘミア王国に編入される[1]。1063年にオロモウツに司教座が設置され、オロモウツ司教は各地に割拠する豪族のまとめ役となった[14]。1182年に神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世はモラヴィアを辺境伯領に昇格させ[1]、ボヘミア王かプシェミスル家の人間が辺境伯となった[15]。1187年にオロモウツが辺境伯領の首都に定められ、1350年からはブルノと首都機能を分け合った[16]。また、12世紀から13世紀にかけては、ボヘミアと同様にドイツ人による東方植民が盛んに行われ、手工業、鉱山業が発達した[1]。
1526年のモハーチの戦いでハンガリー=ボヘミア王ラヨシュ2世(ルドヴィーク)が敗死した後、モラヴィアはボヘミア、ハンガリーと同様にハプスブルク家の支配下に組み入れられる。ハプスブルク家がモラヴィアで布いた強い中央集権化政策はボヘミアとの地域的・民族的一体性を薄め[1]、ハプスブルク家の本拠地であるウィーンとの関係を深めた[15]。1620年のビーラー・ホラの戦いではモラヴィアは反ハプスブルク蜂起への参加を躊躇するが、ボヘミア軍の力を背景とするクーデターによって反乱への参加を決定した[15]。三十年戦争において、1642年から1650年にかけてオロモウツがスウェーデンに占領されたため、モラヴィアの首都はブルノに移される[17]。
1918年にチェコスロバキア共和国がオーストリアから独立した際、モラヴィアはチェコスロバキアの一地方となる。1939年のチェコスロバキア解体により、モラヴィアはボヘミアとともにドイツの保護領(ベーメン・メーレン保護領)となる。1945年にナチス・ドイツが崩壊した後、モラヴィアは再びチェコスロバキアに編入された。共産主義政権下では州制度が廃止されたために行政単位としてのモラヴィアが消滅し、ボヘミア・モラヴィア間の歴史的境界は大きく変化する[15]。
1989年のビロード革命、続くチェコとスロバキアの分裂の機運の高まりの中でモラヴィアでも地域自治を求める運動が活発化する[1]。1990年にモラヴィア自治の復興を掲げる自治的民主主義運動=モラヴァ・スレスコ協会(HSD-SMS)が連邦議会選で全体の約9%、チェコ国民評議会選では全体の約10%の票を獲得した[15]。しかし、有能な指導者を欠くHSD-SMSは政治的失敗を繰り返し、モラヴィアの住民の支持を失った[15]。
1993年のチェコスロバキアの解体後(ビロード離婚)、モラヴィアはチェコ共和国に属する。 モラヴィアの言語、民族はチェコと区別されることはないが、少なくとも19世紀まではモラヴィアの住民は自分たちは「チェコ人」ではなくモラヴィア人であると認識していた[4]。 モラヴィアはボヘミアと同じく聖ヴァーツラフの王冠に帰属する土地とされ、ボヘミアと強い繋がりを持つようになるが、ハプスブルク家の支配下では特に都市部でドイツ的な性格が強まっていった[15]。19世紀前半のモラヴィアの住民は漠然とした形でモラヴィアへの帰属意識を持ち、自らはチェコ人ではなくモラヴィア人であり、モラヴィア語 モラヴィア北部の森林地帯は林業の中心となっており、中央低地では小麦、亜麻、ビート、南部ではライ麦が栽培されている[1]。また、モラヴィア南部はワインの産地として知られている[18]。 モラヴィアの工業はモラヴァ川とオドラ川流域に集中している[1]。オストラヴァを中心とする北部地域では豊富に産出される石炭と鉄鉱石を利用した鉄鋼業が発達し、チェコ国内で最も多くの鉄鋼が生産される地域となっている[1]。オロモウツ、プロスチェヨフ、プシェロフ
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経済