モハメド・アリ
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アリの反戦活動は当時の米国政府や保守派との深刻な対立をもたらし、アリは無敗のままWBAWBC世界ヘビー級統一王座とボクシング・ライセンスを剥奪され、3年7か月間のブランクを作ったが、復帰後、実力で王座奪還を果たした。また、反戦活動と同時に露骨な黒人差別を温存するアメリカ社会に批判的な言動を繰り返した。その後、反戦活動や公民権運動などへの貢献が称えられドイツの平和賞「オットー・ハーン平和メダル」を受賞するなど、アリは「平和主義を象徴する人物の1人」となった[10]マハトマ・ガンディーマーティン・ルーサー・キング・ジュニアとともに壁画に描かれるアリ(ドイツミュンヘンにて)

ボクサーの他に、アクティビストセックスシンボル、そしてポップカルチャーのアイコンとして、アリは書籍映画音楽ゲームテレビ番組などを含む数多くのジャンルで取り上げられてきた。また、アリは「世界で最も有名な人物」と呼ばれることも多く、1974年から1980年にかけて、アリの1試合の視聴者数は推定10億から20億人を記録し、1996年のアトランタオリンピックでアリが聖火台に点火したシーンは世界中で推定35億人の視聴者数を記録した[11]テレビ視聴件数を参照)。

引退から3年が経った42歳のとき、現役時代に受けた頭部へのダメージが原因とされるパーキンソン病と診断され闘病生活を送っており[12]2016年6月3日に74歳で死去した。死因は敗血症ショック[13][14]

弟のラーマン・アリ(英語版)、娘のレイラ・アリも元プロボクサーであり、レイラはWBC世界女子スーパーミドル級の初代王者となり、ジョー・フレージャーの娘であるジャッキー・フレージャー・ライドと2001年に対戦している。総合格闘家のケビン・ケーシー(英語版)は義理の息子[15]。また、孫にプロボクサーのニコ・アリ・ウォルシュ、総合格闘家のビアッジョ・アリ・ウォルシュ、父方の祖先にアーチャー・アレクサンダー(英語版)(1815-1880)がいる[16][17]
人物
ファイトスタイル

大男の力任せな殴り合いだったパワー偏重のヘビー級ボクシングにおいて、アリはリング上を縦横無尽に絶え間なく旋回する「ダンシング」と形容される華麗なフットワークと、両手を低く構え予想外の角度から放たれる鋭い左ジャブを活用する型破りなアウトボクシングを持ち込んだ。また、アリは決してハードパンチャーではなかったが、相手のジャブにカウンターの右ストレート合わせる離れ業や、ブライアン・ロンドンとの試合で見せた2.8秒の間に12発のパンチを放つ驚異的なスピード、並外れた反射神経と動体視力を駆使し相手のパンチをノーガードで交わすディフェンス技術を持っていた[18]マイク・タイソンが出現した現代においてもなお、ヘビー級史上最速と評価される(アリを尊敬しているタイソン自身がアリとの比較で「アリは私には速すぎる」と語っている)。タイソンの共同マネージャーだったジミー・ジェイコブスは、シンクロナイザーを用いて全盛期のアリと、パウンド・フォー・パウンド史上最高のボクサーと称されたシュガー・レイ・ロビンソンのパンチ速度を測定したところ、アリの方が50ポンド(22.6kg)体重が重かったのにもかかわらず、アリのパンチはロビンソンのパンチよりも25%速く、アリのパンチは約1000ポンド(453.5kg)の威力を生み出していたという[19]。全盛期のアリと対戦したジョージ・シュバロは「彼はとにかく速かった。彼がパンチの射程距離に入った時には、もう既に彼が先にパンチを打ち始めていた。だから、もし君がパンチを当てるために彼が射程距離に入るのを待っていたら、君は殴られ続けることになるだろう」と語っている[20]。映画『ALI アリ』でアリ役を演じたウィル・スミスのトレーナーを務めたダレル・フォスターは「アリの特徴的なパンチは左ジャブと右オーバーハンドだった。また、アリは少なくとも6つの種類のジャブを使い分けていた」と語っている[21]。蝶のように舞い、蜂のように刺す(Float like a Butterfly, Sting like a Bee)[22]という著名なフレーズは、アリのトレーナーのドリュー・バンディーニ・ブラウン(英語版)がアリのフットワークとパンチを形容したもので、試合前によく肩を組んで「蝶のように舞い、蜂のように刺す!」と一緒に叫ぶパフォーマンスを見せていた。キャリア後期になりスピードとフットワークが衰えると、アリは試合中に自らロープにもたれかかり(ロープの弾力を利用し相手のパンチの衝撃を和らげるため)両腕でガードを固め、相手のパンチを腕でブロックしながら、時にリング外にのけぞるようにスウェーしてパンチを回避し、相手が攻め疲れたところを反撃するクレバーな戦法を取るようになり、これは後に『ロープ・ア・ドープ(英語版)』として定着した。ボクシング審判員のアーサー・メルカンテ(英語版)は、キャリア晩年のアリについて「アリは全ての技術を知っていた。特にクリンチの技術は私が見た中で最高だった。彼はクリンチを体力回復の為に用いただけでなく、身体の大きさを活かして相手に寄りかかり、押したり引っ張ったりして相手に休む暇を与えず、着実に体力を奪っていた」「彼はとても賢かった。ほとんどのボクサーはただリング上で無我夢中に戦っているだけだが、アリはリング上で起こっていることの一瞬一瞬を全て感じ取っていた。まるでリングサイドに座って試合を分析しながら戦っているかのようだった」と評している[23]ブライアン・ロンドン戦(1966年)
トラッシュ・トーク

トラッシュ・トーカーとして有名であり、注目を集めるための自己宣伝が非常に派手で巧みだった。「俺が最強だ」「俺が最も偉大だ」と公言し、わざと物議をかもす言動をし、試合の相手をからかった詩を発表し、KOラウンド数を予告してリングにあがった。また、60年代の時点で既に韻を踏むなどヒップホップの要素を取り入れたトラッシュ・トーク(リストン戦前に語った『If you like to lose your money, be a fool and bet on Sonny. But if you wanna have a good day, then put it on Clay.(もしお前が金を失いたければ、ソニーに賭けて愚か者になれ。だが、良い日を過ごしたいなら、クレイに賭けるんだな)』など)を披露しており、後世のヒップホップ・ミュージックに影響を与えた人物、あるいはラッパーの先駆者、史上初のラッパーとも称される[24]。80年代から90年代を代表するラッパーのLL・クール・Jは「アリがいなかったら俺のヒット曲は存在しなかっただろうし、G.O.A.T.(Greatest of All Timeの略)という言葉も生まれなかっただろう」と語り、他にもジェイ・Zエミネムショーン・コムズスリック・リックナズ等のラッパーからインスピレーションを受けた人物として挙げられている[25][26]。アリの言動は一部の反感を買い、ベトナム徴兵忌避もあり、多数のアンチを生み出した。 本人はこの言動の理由を「ホラを吹けばみんな俺の試合を見にくるし、プロモーター達には、俺の試合が金になることが判るんだ。野次や怒号の中をリングにあがるのはいい気分だ。最後は俺の予告どおりになるんだからね」としている。1970年
マルコム・Xとの関係

マルコム・Xは1962年にデトロイトで、初めてアリに出会ったと回想している[27]。その後、マルコムがネーション・オブ・イスラムを脱退し、アリにスンニ派イスラム教への改宗を勧めたが、アリはマルコムとの関係を絶ってしまった。これについてアリは「人生で最も後悔している出来事の1つ」と自伝で述べている[28]
アリが影響を受けたボクサー
シュガー・レイ・ロビンソン


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