モノレール
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

日本国外でも農業用[23]、パイプラインの敷設[24]など産業用モノレールとして使用実績もある。

これらの中には、重量物輸送用の高性能タイプなど主軌条のほかにバランスを取るための副軌条を持つシステムもあり、厳密には「モノレール」とは呼べないものも含まれている。しかし副軌条を持つものを含めて、おおむね「産業用モノレール」としてまとめられている[25]

産業用モノレールの主な銘柄としては、以下のものがある。

モノラック(株式会社ニッカリ/ ⇒米山工業株式会社) - 日本国内農業・産業用モノレールトップシェア[いつ?]

エルタラインキャリア( ⇒株式会社エルタ

オートワゴン( ⇒株式会社 正富

ハイラック( ⇒飯田ユニパー株式会社

ゴーリキ( ⇒光永産業株式会社)

簡易型モノレール横浜病院の「ごんたん」(横浜市保土ケ谷区

遊園地のアトラクションや博覧会場内の移動用としての簡易なモノレールもさまざまな会社で製造されている。

横浜市保土ケ谷区狩場町にある育生会横浜病院のモノレールは、国道1号権太坂バス停付近)と高台にある病院を結ぶ。病院が高台へ移転した際に、鉄道ファンの理事長の発案で設置された。ちよだ製作所(香川県高松市)の製造である。病院公式サイトでは、名物モノレール「ごんたん」として紹介されている。当初の塗色はクリーム色と黄緑色のツートンカラーであったが、2016年に湘南電車の色に変更され、下り側に「急行 東海」のヘッドマークシールが貼付され、上り側は病院グループのマークシールが貼付されている。[26]

つくばで行われた国際科学技術博覧会の会場内交通機関として使われた「ビスタライナー」を製造した泉陽興業は、同システムを発展させた「ニュービスタライナー」をローコストで軽量級の交通機関として提案している[27]。同様に、スイスを拠点とする遊戯施設メーカー・インタミンも実用モノレールをラインナップしており[28]モスクワや中国深?での採用実績がある。イギリスに本拠を置く遊戯施設メーカー・セヴァーン・ラムもSLシリーズという実用モノレールを製造しており、アミューズメントパークの交通機関だが、イタリアのサヴォイで採用実績がある。
かつて考案された古典的な方式

モノレールあるいはモノレールに類似した交通システムには、考案されたが実現しなかったもの、ごくわずかな実例しか存在しなかったもの、一時期はある程度普及したがその後廃れたもの、などがたくさん存在する。一部を歴史順に記す。
パーマー式フリードリッヒ・ハーコート(ドイツ語版)によるパーマー式モノレールの図解

高い位置にレールを通し、そこから車両をぶら下げる懸垂式モノレール。荷台・客室は左右に振り分けられ、バランスを取っていた。ヘンリー・ロビンソン・パーマー(Henry Robinson Palmer)(英語版)が開発したもので、1821年11月22日にイギリスで特許が登録されている。1824年にロンドンのデプトフォード造船所に荷物輸送用のものが作られ、翌1825年ハートフォードシャーに旅客輸送用モノレールが開設された。のちにランゲン式を採用したヴッパータール空中鉄道を建設することになるヴッパータールでもパーマー式モノレールの導入が検討されたが、実現はしなかった。当初の動力は馬・人・ラクダ(北アフリカ産)などだったが、詳細不明ながら遅くとも1878年頃までに蒸気動力が導入されていたことがわかっている[29]

本方式が一般的に「世界最初のモノレール」とされている。
ユーイング式ユーイング式

1本のレールに車体が乗り、車体の片側に取り付けられた幅広の車輪で支持して転倒しないようにして走行する方式。19世紀後半(1868年頃?)にイギリス人発明家のチャールズ・ユーイング (Charles Ewing) により考案されたものと考えられている。ユーイング式は、線路に全重量の95%程度がかかるように設計されており、走行抵抗は通常の鉄道と大差ない程度におさえられている。レールを1本しか必要としないため敷設コストが節約できるほか、線路が占有する幅員が狭いために道路と同居しやすいという利点があった。案内は一本の軌条が行うが、全重量をその軌条が負担するわけではなく、厳密には案内軌条式鉄道に分類される。

本方式はイギリス人のウィリアム・サロルド (William Thorold) が具体化し、インドのパティアーラ州立鉄道 (PSMT) に導入された。PSMTは1910年に開通した路線で、馬力鉄道として開通したのちにオーレンシュタイン・ウント・コッペル社製造の蒸気機関車が導入され、全盛期は2路線で80kmの行程であった。

PSMTは道路の改良と自動車の出現によって1927年に廃止され、長らく存在が忘れられていたが、1962年に再発見された。後年に車両は保管されてインドのニューデリー鉄道博物館で動態保存されている。
リロイ・ストーン式リロイ・ストーンのセンテニアル・モノレール

1876年に行われたアメリカ合衆国建国百年記念博覧会の会場にセンテニアル・モノレールとして設置されたものであり、極初期、あるいは最初の跨座式モノレール。リロイ・ストーン将軍(General Leroy Stone)により考案された。A字型の橋脚の上に一条、下に左右に二条のレールを持ち、上の車輪で車重を支え下の車輪でバランスを取る方式である。3点で車体を支える方法は跨座式モノレールのひとつの様式となり、その後のラルティーグ式アルヴェーグ式ロッキード式などにも踏襲されている。

本方式は、すべての車輪は両フランジで、動力は蒸気である。その後の「跨座式」と類似のレイアウトであり、すでに全高が高くなる欠点が顕在化していた。下側車輪の左右に垂れ下がった車体の部分を機関車では水槽や炭庫として使い、客車ではそこにも客席を設けてダブルデッカー構造としてスペースを有効に活用すべく努力した形跡が認められる。
ラルマンジャ式ラルマンジャ式

中央の一本のレールを誘導用として使用し、両側に取り付けられたフランジの無い幅広の車輪で駆動・支持して走行する方式。両側の車輪は木製の板の上を走行する。フランスのジャン・ラルマンジャ (Jean Larmanjat) により考案された。案内は一本の軌条が行うが、全重量をその軌条が負担するわけではないため、厳密には案内軌条式鉄道に分類される。

類似した発想に基づくユーイング式では一条の鉄軌道が大半の重量を負担したが、ラルマンジャ式はそうはなっていない。鉄軌条は、全車両の案内と機関車など重量車両の重量の大半の負担を受け持っていたが、客車などの軽量車両はその重量の大半を側車輪が負担するようになっていた。客車は、馬車などに中央の鉄軌条による案内を付け加えたような構造となっていた。

1868年8月にフランスでイベント用交通機関として実用化され15か月間使用されたという記録が残っているが、詳細は解明されていない。

その後、1870年代にリスボンの市街鉄道で使用された。両側の走行用の板が早く傷んでしまい、乗り心地も悪かったため普及に至らなかった。
マイグス式マイグス式

上下に1本ずつ計2本全4面を持つレールを設置し、下部のレールを外側に傾いて設置された車輪で両側から挟み込んで車重を支え、上部のレールを水平に設置された車輪で両側から挟み込んでバランスを取る方式の跨座式モノレール。アメリカのジョー・V・マイグス (Joe V. Meigs) により考案されたもので、1886年マサチューセッツ州ケンブリッジで試験的に使用された。これは都市での高架鉄道の試行のひとつであり、ルート28の上に敷設された[30]

一般に跨座式モノレールの場合、軌道桁の上面で車両重量を支えるが、マイグス式では軌道桁の下部で支えている。そのため軌道桁から床面までの距離を詰められるという特徴があった。この考え方は、のちの「逆T字方式」と呼ばれる方式のモノレールにも共通するものである。
ラルティーグ式ラルティーグ式

A字型の支柱の上と支柱の下の左右に合計3条のレールが設けられており、上のレールで車輌重量を支え下のレールで車体を安定させるという方式。アルジェリアなどでパーマー式懸垂式モノレールの建設に携わっていたシャルル・ラルティーグ (Charles Lartigue) が開発したもので、これは跨座式モノレールとしてはポピュラーな様式であり、アメリカ合衆国建国百年博覧会で披露されたリロイ・ストーン式モノレールなどの先例がある。

1888年3月1日にリストウェル・パリブニオン鉄道(アイルランドケリー県)の14.4kmの路線が開通した。動力は蒸気で、3軸式の機関車が用意された。この路線は1924年にアイルランド内戦によって破壊されたことから廃線となった。2002年に短い区間ではあるが観光目的で復元され、レプリカの車両で運転されている[31]。機関車は蒸気機関車風の外装になっているが、ディーゼル機関車である。

他に営業に使われた路線としてはフランスのフュール=パニシエル鉄道がある。開通は1893年で、延長は16.9キロだった。この路線は1902年に廃止された。蒸気機関車が1両、保存されている。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:104 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef