19世紀後半、モナコ初のカジノであるモンテカルロ・カジノがオープンし、パリとの鉄道も開通したことで、経済発展が加速した[6]。その後も、温暖な気候や景観、ギャンブル施設の充実などから、観光地や富裕層の保養地としての地位を確立してきた。
近年では主要な銀行の中心地となり、サービス業や小規模で高付加価値の無公害産業に経済の多様化を図っている。モナコは所得税がなく、事業税も低く、タックス・ヘイヴンとして有名である。居住者の30%以上がミリオネアで、2018年には不動産価格が1平方メートルあたり10万ユーロ(14万2,000ドル)に達している[7]。モナコは正式には欧州連合(EU)の一員ではないが、税関や国境管理など、EUの一部の政策に参加している。フランスとの関係から、モナコは唯一の通貨としてユーロを使用しているが、それ以前はモネガスク・フランを使用していた。モナコは2004年に欧州評議会に加盟し、フランコフォニー国際機関(OIF)にも加盟している。
F1グランプリの原型の一つであるストリートサーキットのモーターレース、モナコグランプリが毎年開催されている。フランス・リーグ・アンに所属するサッカーのクラブチームASモナコがあり、これまでに通算8度のリーグ優勝に輝いている。海洋保護の研究の中心地[8]であるモナコには、世界で初めて保護された海洋生息地のひとつ、海洋博物館、国連組織の中で唯一の海洋研究所である国際原子力機関環境研究所がある[9]。 モナコという地名は、現在のモナコの近隣に6世紀にあったポカイア人の入植地の名に由来する。その地はギリシャ語で「一軒家」を意味する Μ?νοικο? Monoikos の名で呼ばれていた。ギリシア神話では、ヘラクレスが現在のモナコの地を通りかかり土地の神々を退散させたとあり、それにちなんで1つの神殿が作られた。その1つの神殿が「一軒家」に転じ、地名が生じた。 神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世から1191年にこの土地を与えられたジェノヴァ共和国は、1228年に現在のモナコを建設した。1297年、ギベリン(皇帝派)に占領されていたモナコの要塞に、フランシスコ会の修道士姿に変装し法衣の下に武装して侵入したフランソワ・グリマルディらは、要塞の占拠に成功した。グリマルディは、現在のモナコ公家であるグリマルディ家の始祖である[注 2]。そのため、グリマルディは、「狡猾な男」とあだ名される。1419年、グリマルディ家はアラゴン王国からモナコを購入し、正式な支配者となる。1528年、アンドレア・ドーリアがジェノヴァの貴族層と庶民層の合体を企て、そのために政権を特定の28氏族 1793年、フランス革命軍がモナコを占領・併合した。1814年までモナコはフランス第一帝政の直接支配下におかれた。1815年に催されたウィーン会議の結果、モナコはサルデーニャ王国の保護下に入った。サルデーニャはジェノヴァの後継である。 1858年のプロンビエールの密約で、サルデーニャは、イタリア統一運動をフランスに支援してもらう代償として、1860年にはサヴォワ(サヴォワ県とオート=サヴォワ県)とニース伯領(アルプ=マリティーム県)をフランスに割譲する。モナコ公の課す重税に倦み、サルデーニャへの併合を希望するマントンとロクブリュヌは、モナコからの独立を宣言する。 シャルル3世は1861年、フランス・モナコ保護友好条約を締結、領土の95%にあたるマントンとロクブリュヌをフランスに売却し、見返りにモナコ公国の主権を回復した。.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}} 1911年、憲法を制定したことで立憲君主制となるも、モナコ大公は依然として絶対君主として振る舞い、アルベール1世はすぐに憲法を停止した。第一次世界大戦が勃発すると大公子ルイ(後のルイ2世)はフランス陸軍に志願、軍功をあげ将軍に上り詰めた。1918年、保護友好条約を再締結、フランスの保護国となった。ヴェルサイユ条約などの第一次世界大戦の講和条約においては、この条約を各国が承認する規定が設けられている。1922年、ルイ2世が即位する。モナコを文化・観光都市にする試みを続け、モナコ・グランプリの開催、ASモナコの創設などを行った。 第二次世界大戦中の1943年にイタリア軍がモナコを占領し、ファシスト政権を樹立した。ベニート・ムッソリーニの政権が崩壊すると、今度はナチス・ドイツのドイツ国防軍が占領した。ドイツは同地でもユダヤ人の迫害を行った。「第二次世界大戦時のモナコの歴史
国名の由来
歴史詳細は「モナコの歴史」を参照
17世紀までモナコ イタリア本土 (古代ローマ) 紀元前1世紀.モナコ ジェノヴァ共和国, イタリア 1494.モナコ ジェノヴァ共和国, イタリア 1796.フランスの侵攻 1860.青がマントンとロクブリュヌ、1860年のトリノ条約で分離独立した。オレンジが現在のモナコ。
18 - 19世紀
20世紀
ルイが1949年に死去すると、孫のレーニエ3世が即位した。1956年にはハリウッド女優のグレース・ケリーと結婚した。