同年5月、『USフェスティバル』にヴァン・ヘイレン、オジー・オズボーン、スコーピオンズらと共に出演。この頃のステージ衣装は映画『マッドマックス2』や『ニューヨーク1997』からヒントを得たものだった。同年9月、2ndアルバム "Shout At The Devil" を発表。タイトル曲、ペンタグラムの描かれたアルバムジャケットから「彼らは悪魔主義だ」とPMRCから名指しで批判されたが、バンドはこれを否定(ジャケットは後にメンバー4人の写真に変更)。アルバムは全米チャート最高17位を記録、プラチナムを獲得した。
1984年1月からオジー・オズボーンのサポートとして全米ツアー。
4月からはサクソン、ラット、アクセプトなどをサポートにヘッドラインツアー。
この頃ニッキーは友人であるラットのロビン・クロスビーと共同生活を始め、共にドラッグに溺れる生活を送っていた。
8月、イギリスのドニントンで行われた『モンスターズ・オブ・ロック』にオープニング・アクトとして出演。10月、アイアン・メイデンのサポートとしてヨーロッパ・ツアー。
12月8日、ヴィンスが飲酒運転で起こした交通事故によりハノイ・ロックスのドラマーであるラズル (Razzle (musician)) が死亡。ハノイ・ロックス解散の原因となる。
1985年1月、ヴィンスが裁判所の命令でアルコールのリハビリセンターに30日間入所。
6月、3rdアルバム"Theatre Of Pain"発表。このアルバムは全米チャート最高6位を記録しプラチナム獲得。ステージ衣装はスパンコールをちりばめたグラマラスなものになりバンド・ロゴも一変した。(これ以降バンド・ロゴはアルバム発表ごとに変わっていく)
この頃よりデビュー前から手を染めていたメンバーのドラッグ・アルコール問題が深刻になる。特にニッキーのドラッグ中毒は深刻でヘロイン、コカイン等に金と時間を費やしていた。当時は数グラムのコカインが5000ドルにもなるほど高騰していたという。ロンドンでのライブでは途中で意識を失うこともあった。
また、同ロンドンでドラッグディーラーの家でドラッグを摂取している際に意識を失い、死亡したと思われたためにゴミ箱に捨てられていた、とニッキー本人が語っている映像がある。その頃の状態は後にニッキーが「ヘロイン・ダイアリーズ」として発表する。
7月には初の来日公演。続く全米ツアーではY&Tがサポート。ツアー後半のサポート・アクトは日本のラウドネスが勤めた。
1986年5月、トミーが女優のヘザー・ロックリアと結婚。(1993年に離婚)
6月、ヴィンスが前年起こした事故のため入獄(模範囚として19日後に出所)。
1987年5月、4thアルバム"Girls, Girls, Girls"発表。メイクをやめステージ衣装もレザーを基調にしたワイルドなものになり、このアルバムは全米チャート最高2位を記録。ワールドツアーではバック・コーラスに女性デュオ「ナスティ・ハビッツ」(ドナ・マクダニエル&エミ・キャニオン)を帯同、トミーは360度回転するドラムセットで演奏。「ハイ・エナジー、ロー・IQ」と称されていて、本人も苦笑しつつ認めていた。ツアーのサポートは6月からホワイトスネイク、11月からはガンズ・アンド・ローゼズ。
12月に2度目の来日公演。
12月22日、ニッキーがラットのロビン・クロスビー、ガンズ・アンド・ローゼスのスラッシュらとのドラッグ・パーティーの途中、過剰摂取により心臓が一時停止してしまう。
1988年1月、マシュー・ジョン・トリップなる男が「怪我をしたニッキーの代わりにベースを弾いていた、その間の報酬が支払われていない」と発言し、バンドとマネージメントを訴え裁判となるが、バンド側が勝訴(当時、ニッキーが車の運転中に意識を失って事故を起こし、鎖骨を骨折してしまった事故があり、しばらくの間、楽器を演奏することが出来ない時期があったという背景あり)。
1989年8月、ボン・ジョヴィ、オジー・オズボーン、スキッド・ロウ、スコーピオンズらとともに当時のソビエト連邦首都モスクワで行われた『モスクワ・ミュージック・ピース・フェスティバル』に参加。
9月にはメンバー全員がドラッグを絶ち、初めて正常な状態で制作された5thアルバム"Dr.Feelgood"を発表。エアロスミスのスティーヴン・タイラー、スキッド・ロウ、ブライアン・アダムスらがゲストとして参加したこのアルバムは遂に全米チャート第1位を記録し、アメリカだけで700万枚以上のセールスを記録した。