被告人たちの何名かに対しては、ブハーリンとルイコフが被告人本人の自白とは異なる反対証言を行っているが、裁判後程なくして両者ともに逮捕されることとなる。
裁判を傍聴したリオン・フォイヒトヴァンガーは、著書『モスクワ1937』にてこの裁判についての講評を残しているが、産業畑の被告人達に対しては「彼らは"野心と欲望を持っていた"と説明されても俄には反論しがたい経歴を有する者達ばかりであった。彼らはその分野でかなり出世した人物ではあるが、最高位のポストに就いていた訳ではなく、いずれも政治局員ではないという共通項があった。」という印象を持ち、粛々と自らの罪を告白していく被告人達に対しては「これが拷問と脅迫に起因するものでないとすれば、薬物を投与されたか催眠術を掛けられたかのいずれかであろう。」「ラデックをはじめとする被告人たちは死刑判決を前にしても皆余りにも落ち着き払っていたが、一方で頻りに傍聴席の視線を気にしているような素振りも見せており、これは刑事裁判というよりも入念なリハーサルと演技指導の上で上演された演劇のようにしか見えなかった。」と書き記している。 1938年3月2日、「右翼トロツキスト陰謀事件」を訴因としてブハーリンを裁くための法廷、いわゆる「21人裁判
第三回モスクワ裁判
裁判場は500人以上が収容できる連邦会館ホールに設けられたが、やはり傍聴席はNKVDで埋め尽くされた。ブハーリン、前NKVD長官のヤゴーダ、ルイコフなど21名が被告となったが、この裁判における世界の注目はブハーリンにあった。しかしブハーリンはじめ被告たちはやはり何らの異議も唱えず、罪を「自白」してしまう。このブハーリンの様子を外国人ジャーナリストたちはさまざまに書いているが、そのうちコンクェストによると「裁判でうそを告発しようとしたブハーリンの考えはあまりにデリケートすぎた。もし彼にそういう考えがあればの話だが。利害関係が無く、まともな傍聴人でも告発は信じなかっただろう。が、この裁判劇はもっと広範な政治的聴衆のために上演されたのであって彼らの印象は単純である。ブハーリンが自白した、と。」と総括する。
一方、ただ一人ニコライ・クレスチンスキーだけが「私が有罪など、認めるわけにはいかない。私はトロツキー派ではない。私は決して"右翼トロツキー・ブロック"のメンバーではないし、そんなものの存在すら知らない。また、私個人に転嫁された犯罪は ただの一つたりとも行ってはいない。 ―― そして特に、ドイツの情報機関との関係を維持していたことについて、私は無罪である」と反論を試みた。もっともクレスチンスキーも翌日には「昨日は、被告席の雰囲気と、起訴状朗読による辛い印象とにより呼び起こされたいわれなき恥辱であるという感覚を、一時的に抱いていた影響のために、そして私の体調不良がそれをいっそう重く感じさせ、私は本当のことを述べることができず、有罪であることを認めることができませんでした。そして「私は有罪です」と述べる代わりに、ほぼ機械的に「私は無罪です」と答えてしまいました」と述べて「罪」を「自白」してしまった。肉体的か精神的かは不明だが、NKVDがクレスチンスキーに何らかの圧力をかけたと考えられる。
判決は3月13日に下され、ブハーリン以下18人の被告が2日後に銃殺刑に処せられた。ドミトリー・プレトニョフ(スペイン語版)、セルゲイ・ベッソノフ(ロシア語版)、フリスチアン・ラコフスキー(英語版)の3名は25年から20年の懲役刑が宣告され、一旦は「助命」されたものの、1941年の独ソ戦勃発に伴いドイツ軍の侵攻がオーレル刑務所(英語版)に迫った結果、第2回モスクワ裁判により服役していたストロイロフとバレンティンの運命と同様に、メドベージェフ森の虐殺(英語版)に巻き込まれ、3名ともNKVDに殺害されてしまった。
なお、ブハーリンはこの裁判の前、逮捕を予期して「党の指導者の未来の世代へ」と題する一文をしたため、妻アンナにこれを暗記させてから燃やさせたという。そこには
「私はこの世を去る。私が頭を垂れるのは、容赦ないものであるべきだが、純潔なものであるべきプロレタリアの斧の前にではない。地獄の機械の前に自分の無力さを感ずる。それは、明らかに、中世の方法を使いながら、怪力をふるい、組織された中傷をでっち上げ、堂々と自信満々に振る舞っている。ジェルジンスキーはもういない。