モスクワ地下鉄
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カーメル・コレジュスキー・ヴァル道路に沿った1本の環状線とそれへの乗り換えを可能にする駅の建設が計画された。

1913年、モスクワ市政府は、タガンスク-トヴェリ線(トヴェルスカヤ・ザスタヴァからカリトニコフまで)、アルバーツコ-ミャニツカヤ線(カランチョフスカヤ広場からキエフスキー駅まで)と、ヴィンダフスコ-ザモスクヴォレーツカヤ線(ヴィンダフスキー駅からZILプラットフォームまで)の3つの放射状線地下鉄路線からなる独自の地下鉄建設計画を作成した。1914年-1920年に予定された建設計画は市議会によって承認された。1914年春、カリトニコフで最初の車庫の建設が開始された。用地が確保され建材も運び込まれたが、第一次世界大戦の勃発によって計画は頓挫した。しかし、1923年-1927年にかけて建設が続けられ、カリトニコフの車庫は完成し、第4オクチャーブリスカヤ車庫となった。電気技師M.K.ポリバノフによって1916年に提案された詳細な計画もあった。その計画は3つの放射線状地下鉄のトンネルが主要路線に接続され、その郊外を走る路線は電化されるというものであった。1923年、モスクワ地下鉄建設計画は外国企業であるシーメンスに発注された。80kmのトンネルと86駅の建設を含むシーメンスによる案は1925年に完成した。しかし、資金不足によりこの案は実現には至らなかった。1925年にミャニツキー放射状線の計画が立案されたが、これも同様に実現には至らなかった。
実現された計画
ソ連時代

1931年6月15日、ソビエト連邦共産党中央委員会で、モスクワ市党委員会の第一書記のラーザリ・カガノーヴィチによる報告の後、市内の交通状況を改善し、また、モスクワ市電への乗客の集中を緩和するためにモスクワ地下鉄を建設することが決定された。1931年11月に最初の試験区間の建設がルサコフスカヤ通りで開始された。計画立案中に、将来の地下鉄駅のプラットフォームを島式ホームにするか相対式ホームにするかの議論が起こったが、その結果、島式ホームを備えた3列アーチ式駅とすることが決定された。乗客の地上への移動のためにエスカレーターの設置が提案された。モスクワの技師ヴェニアミン・マコフスキーはモスクワの土壌の複雑な条件下では地下深くにトンネルを敷設する必要があり、またそれは可能であると述べた。1933年に地下鉄第一期工事の計画が認可され、同年メトロストロイ社が主要な工事を開始した。第一期の路線の決定にあたり、まずモスクワ市電の乗客の動きを調べ、最も混雑するルートから建設することにした。ソコリニキ駅 - コムソモーリスカヤ駅間、ビブリオチェーカ・イーミニ・レーニナ駅 - パールク・クリトゥールイ駅間は開盤工法で建設された。また、アレクサンドロフスキー庭園駅 - スモレンスカヤ駅間はトレンチカット工法で建設された。そして、オホートヌイ・リャート駅 - ジェルジンスカヤ広場駅間の地下深い区間ではイギリス式のシールド工法が採用された。建設作業には、欧米の専門の工事者や技師が招かれた。1935年2月15日、初の試験走行が行われた。モスクワ地下鉄は1935年5月15日に開業した。最初の乗客となったのはクラスニープロレタリー工場の労働英雄であるピョートル・ニコラエヴィチ・ラティシエフであった。彼は1935年5月15日に開所したソコリニキ駅の発券所でA-1番の切符を購入した。プスコバヤ線は全長11.2kmで13の駅に12編成が運行された。第一期工事区間はソコリニキ駅 - パールク・クリトゥールイ駅間でスモレンスカヤ駅への支線を伴っていた。後にフィリョーフスカヤ線となったこの支線は、1937年にキエフスカヤ駅まで開通し、途中、モスクワ川を橋で渡った。独ソ戦の開戦までに、さらに2路線が開通した。1938年3月にアルバーツカヤ線がクールスカヤ駅まで延伸された(現在この区間はアルバーツコ=ポクローフスカヤ線に属する)。1938年9月、ゴルコフスコ・ザモスクヴォレーツカヤ線が開通し、ソコル駅からスヴェルドロヴァ広場駅を結んだ。(1990年以降はチェアトラーリナヤ駅に改名。)独ソ戦中には地下鉄は防空壕として使用され、空襲の間に合計217人の子供が地下で生まれた。1941年10月15日、戦略的重要施設として破壊の準備のためモスクワ地下鉄を3時間に渡って閉鎖するという命令がラーザリ・カガノーヴィチによって出された。地下鉄を破壊し、残った車両と装備は撤去することが提案された。1941年10月16日「パニックの日」の朝に地下鉄は閉鎖された。これはモスクワ地下鉄史上唯一の運休であった。しかし夕方には地下鉄破壊命令は撤回された。紙の切符(1940-1941)

モスクワ地下鉄の第三期工事は1940年に開始された。独ソ戦の開戦前のことであった。開戦後の数ヶ月間は建設工事が凍結されたが、モスクワ占領の脅威を脱した1942年5月には既に工事は再開していた。2つの支線が加わった。一つは1943年1月のスヴェルドフォヴァ広場駅 - スターリン工場駅(1956年にアフトザヴォーツカヤ駅に改名)間(モスクワ川を深いトンネルで交差するが、パヴェレツカヤ駅ノヴォクズネツカヤ駅がその後1943年11月に開業)で、もう一つは1944年1月のクールスカヤ駅 - イズマイロフスキー公園駅(2005年にパルチザンスカヤに改名)間であった(4駅)。戦時中に建てられた7つの駅には「独ソ戦中に建設された」という記念プレートがある。戦後に第四期工事、つまり環状線プローシャチ・レヴォリューツィ駅 - キエフスカヤ駅間のアルバート線の深部の建設が始まった。環状線は本来、サドーヴォエ環状道路の下に建設される予定であった。1区間目の部分のパールク・クリトゥールイ駅 - クールスカヤ駅(1950)間は、サドーヴォエ環状道路の真下に敷かれた。しかし後に北部を通る環状線はサドーヴォエ環状道路の外側に建設することが決定され、モスクワの9つあるターミナル駅のうち7つのターミナル駅への地下鉄からの接続が可能となった。1952年に環状線の2区間目の部分(クールスカヤ駅 - ベラルースカヤ駅間)が開通し、1954年には環状線が全線開通した。1952年1月に計画事務所が設立されたが、1971年からはモスクワ地下鉄計画設計局となった。

アルバート線の深い区間の建設は冷戦の開始に関係していた。核戦争が発生した場合、地中深くに位置する駅はシェルターとして機能するはずであった。アルバート線は1953年に建設が完了した後に、上部にある路線(カリーニンスカヤ駅 - キエフスカヤ駅間)は閉鎖されたが、1958年にはフィリョーフスカヤ線の一部として再び使用されている。それまでは運転手が駅名を大声で言っていたが、1951年12月12日から地下鉄の駅名の放送が開始された。駅名の放送をする最初の電車はソコル駅からスヴェルドフォヴァ広場駅を通った。1953年2月から10月にかけて、環状線で初めて乗客向けの拡声器による車内放送の試験が行われた。1953年12月29日以降、環状線の全ての電車に乗客向けの拡声器による車内放送が導入された。1972年からは地下鉄の全路線に放送システムが導入された。1955年から、ソ連共産党中央委員会とソ連閣僚会議による決議「計画と建設における過剰の排除について(ロシア語版)」により、地下鉄開発の重点は駅の建設コストを抑えた上で建設を加速させることに置かれることとなった。各駅の建設には決められた一定の予算が割り振られ、その範囲内に抑える必要があった。駅の建設は高価な個々のプロジェクトから、より安価な規格建築プロジェクトに変わり始めた。古典的なスターリン様式で建設された最後の駅は、1957年5月1日にオープンしたフルンゼンスカヤ駅スポルチーヴナヤ駅であった。セルポーフスキー放射状路線バッジ、1983年


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