1375年にミハイルがジョチ・ウルスのヤルリクからヴラディーミル大公位を拝領してトヴェリ軍がトルジョークとウグリチを攻撃するとドミートリーは北東ルーシ、スモレンスク公国、ブリャンスク公国並びにオカ川上流公国群の戦力を加えた軍勢を引き連れてトヴェリに進軍して包囲した。それに続くトヴェリに対するアルギルダスの軍事的行動(結局は衝突することもなく撤退した)に関して歴史家の間では伝統的に[2]1372年の休戦条約を破ってまでのミハイルへの援助は不成功な試みであったと解釈されている。実際にアルギルダスはトヴェリへの遠征軍でもってスモレンスク公国を荒らし回っていた[6]。最終的にミハイルはモスクワ大公の長上権を認め、その反リトアニア同盟に加わることを余儀なくされた。
脚注[脚注の使い方]^ ⇒Все монархии мира
^ a b Разин Е. А. ⇒История военного искусства
^ Шабульдо Ф. М. Земли Юго-Западной Руси в составе Великого княжества Литовского
^ ⇒Хроника Быховца. М. Наука. 1966. Предисловие
^ [kamunikat.org/download.php?item=9432-1.pdf&pubref=9432 КАРОТК? АГЛЯД ГIСТОРЫI БЕЛАРУСI Кливленд-Нью-Йорк 1968 г. С. 26]
^ Соловьев С. М. ⇒История России с древнейших времен, т.3 гл.7
参考文献
三浦清美『ロシアの源流 中心なき森と草原から第三のローマへ』(講談社選書メチエ, 講談社, 2003年7月)ISBN 4062582740
外部リンク
⇒Карта литовско-московской войны 1368?1372