モサラベ語
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同様にアルプス地域においても、別のロマンス語のひとつであるラディン語(スイス東部のグラウビュンデン州の2つの谷とイタリア北部のトレンティーノ=アルト・アディジェ/南ティロル州ヴェネト州で話されている)の話者は、彼ら自身の言葉で「ラテン語」を意味するラディン語と呼んでいるのである。中世前期においては様々な地域で話されるロマンス語を指していたのである。
モサラベ語に関する記録

モサラベ語で書かれた短いテクストに加え、アル=アンダルス時代の著述家によるさまざまなモサラベ語についての記述が今日まで伝わっており、このことによってその社会的使用や様々な文脈における使用の広がりなどを理解することが可能となっている。これらの言及の中で、モサラベ語は'aljamia'(a?amiyya)、'latini'(Lathin?)という名称でしるされている。以下いくつかの例を提示する:[2][3][7][8]

地理学者のIbn Khordadhbeh(Ab? l-Q?sim ?Ubayd All?h ibn Khord?dhbeh, 820年-911年)はイベリア半島で話されている言語を2種類に分類し、言及している:南部のandalusiyyaと北東部のafrangiyyaである。

歴史家のBenalcutiaはDaysam ben Ishaq支配地(10世紀初頭のTudmirの地域)からのAbdalaの軍が到着した時、次のことを残している:
≪人々は、平和を願って、その地の方言で叫んだ≫

11世紀の博識なムルシア人Ibn Sida(Ab?-l-Hasan `Al? ibn Ism?`?l al-Musr? al-Andalusi al-lugaw?)はその著作Kit?b al-Mujassasの冒頭で、彼が著したある作品でのアラビア語を間違えた可能性について以下のように謝罪している:
≪そして、もし私が、あの時代に、そしてaljamiaで話す人々と親密に暮らさねばならない状況にあって、書くのであれば、どうして私がそれらを間違えるであろうか?≫

11世紀のサラゴサの医師で、植物学者のIbn Buqlaris(Yonah ben Isaac ibn Buqlaris al-Israili)はその著作Kitab al Mustainiの中で"aljamia"または"アル=アンダルス東部のlatinia"からその土地固有の植物の名を記している。

Ibn al-Baitar(?iy?? Al-D?n Ab? Mu?ammad ?Abdll?h Ibn A?mad al-M?laq?、1190年あるいは1197年-1248年)という名の13世紀のマラガの医者で植物学者はAl G??mi 'li mufrad?t al adawiya wa al a?diという著作の中で、latiniaとaljamiaの語彙の等価性について記している。イベリア半島東南部によくありふれた植物の名称について触れて、"アル=アンダルス東部のaljamia"のことを記している。

モサラベとキリスト教徒諸王国

レコンキスタの進展によって、モサラベ住民は、そこの住民に影響を与え、そして征服されたイスラム教徒の領域の制度や、物についての語彙を浸透させながら、キリスト教徒諸王国に組み込まれていった。同様に日常的に使用される用語が浸透していった。前述したように、モサラベ語は12世紀以降ムワッヒド朝の到来もあり激減し、これらのアンダルス・アラビア語話者はすでにモサラベ語の話者ではなかった。南部のイスラム教徒支配下の土地から北部へのキリスト教徒のモサラベの移住によって、ほとんどイスラム支配をうけなかった地域においてもアラビア語起源と思われる地名が見られる。

一方、北部のキリスト教徒のロマンス諸語へのアラビア語の影響は11世紀のコルドバの後ウマイヤ朝の分裂を契機に拡大したと考えられる。レコンキスタが拡大し、11世紀以来他を圧倒しつつあったカスティーリャ王国で話されていた中央部や北部のカスティーリャ語に多くのアラビア語が侵入していった。このことによっておそらくモサラベ諸方言とカスティーリャ語、ポルトガル語、カタルーニャ語との間に当時接触があり、意思疎通が可能であったであろうと思われる。
言語学的記述
分類

モサラベ語がロマンス語であることは、その語彙や明らかに後期ラテン語から引き継いだと思われる文法から明白である。しかしながら、ロマンス語内部での位置づけは現在においても議論の分かれるところである。まずそれは、イベリア・ロマンス語に特徴的な音声変化があまり確認できないということである[注釈 2]

一方、エスノローグは明確な証拠がないにもかかわらず、ピレネー・モサラベ言語グループ(スペイン語版)の呼称を用いている。しかし、実際にはナバーラ・アラゴン語(スペイン語版)とモサラベ語との間にこの言語グループを設定できるだけのはっきりとした等語線を引くことはできない。
音韻論アルハミーアのテクストの例、Poema de Yucufの写本。

いくつかの面において、モサラベ語はイベリア半島の他のロマンス語より古風な特徴を持つ。このことは孤立した周辺的な言語変種が「言語的に保守的な島」として残されたと考えられる。モサラベ語とみなされるロマンス語で書かれた文書に基づいて以下のようないくつかの古風な特徴の例を挙げる:

ラテン語の子音グループCL、FL、PL(/kl、fl、pl/)を保持。

ラテン語の母音間の子音(P、T、C、音声表記 /p、t、k/)に弱化が起きなかった。イベリア・ロマンス語の多くでは母音間の子音が有声化した( /p/ > /b/、/t/ > /d/、/k/ > /g/ )。例(モサラベ語-スペイン語):lopa-loba、toto-todo、formica-hormiga。

ラテン語の子音グループ-CT-は、nohte < NOCTE(M) のように/ht/へと変化した。カスティーリャ語では口蓋化し、nocheとなった。

ラテン語の /k(e)/ あるいは /k(i)/ に由来する無声後部歯茎破擦音/t?/の保持(このことはイタリア語でも見られるが、その他の西ロマンス語では /ts/ に変化した)。

(少なくともいくつかの地域において)ラテン語の二重母音 /au/ と /ai/ が保持された。

形態論と文法

いくつかの語については、一般的にその他のロマンス語で見られる語形よりも、ラテン語により近い形式が見られる。
他のロマンス語への影響

基層言語としてのモサラベ語はバレンシア語バラアース方言カタルーニャ語から、ポルトガル語ガリシア語から、エストレマドゥーラ語アストゥリアス・レオン語から、アンダルシーア方言やムルシア方言などの南部で話されるカスティーリャ語方言をカスティーリャ語(スペイン語版)から区別される特徴を与えた。特にカスティーリャ語については、新たに人口がまばらでアラビア語の影響を強く受けた中央カスティーリャ方言をロマンス方言連続体に付け加えることとなった。そして、唯一明確な影響は語彙についてで、ポルトガル語あるいはカタルーニャ語同様にカスティーリャ語に、モサラベ語を通して多くのアラビア語語彙が持ち込まれたということである。
文字詳細は「アルハミヤー文学」を参照

モサラベ語はロマンス語のひとつであるが、アラビア文字で書かれ、それはアルハミーア(al ‘a?amiyya)と呼ばれる。この書かれたものはかなりの数のものが残されており、この時代の書かれたロマンス語として重要である。

しかし、これらのモサラベ語テキストの解読には非常に多くの困難が伴う。まず、アラビア語において母音が書かれないのと同様にこれらのテキストのモサラベ語も母音が書かれていないからである。モサラベ語のテキストにおいて、この母音が記されないという事は、モサラベ語のもととなったロマンス語諸方言間やアラビア語諸方言間にみられる傾向や法則性などの多様性があるように、モサラベ語に存在する多様性を考えた場合、非常に困難な問題となって表れる。このような理由でハルチャの解釈・解読において研究者によってさまざまな違いが見られることになる[9]
脚注[脚注の使い方]
注釈^ スペイン語ではmozarabeという語はイスラム教徒支配下にとどまったキリスト教徒住民と、彼らの話す言語を表すという両義性があるため、非常に紛らわしいことと、実際にはモサラベ(キリスト教徒)以外のイスラム教徒やユダヤ教徒なども話していたため、アル=アンダルスで話されていたロマンス語を意味するアンダルス・ロマンス語やロマンダルシ語という名称が近年提唱されている。
^ 例えば、母音が表記されないことによって、正確な発音がよくわからないため。

出典^ Corriente, F. (2004): El elemento arabe en la historia linguistica peninsular. En Cano, R. (coord.) Historia de la lengua espanola, Barcelona, Ariel.
^ a b Menendez Pidal, R. (1926). Origenes del castellano. .mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 978-84-239-4752-2 
^ a b Simonet, Francisco Javier. (1897-1903). Historia de los mozarabes de Espana. Real Academia de la Historia 
^ Sola-Sole 1973, p. 35 
^ (Wright 1982, p. 156)


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