測量から計算された結果、子午線全周の1⁄4に当たる北極点から赤道までの子午線弧長は5130740トワーズという数値が計算された[43]。測定の終了を受けて、1799年にフランスは、これを1千万分の1にした値3ピエ11.296リーニュを1メートルと定めた[43]。これは、1ヤードや2キュービットといった既存の長さ単位を意識して採用された[50]。そして、白金で作られた板状の[50]メートル原器(端度器[51])を製作し、これをフランス国立中央文書館に保管した[43]。これはアルシーヴ原器 (Metre des Archives) と呼ばれた[43]。
この新しい長さの単位は、旧来の慣れ親しんだ寸法からすぐには切替わらなかった。フランスは1837年にメートル法以外の単位使用を法律で禁じ[52][注 6]、1851年のロンドン万国博覧会や1867年のパリ万国博覧会などで広報活動を行い、普及に努めた[43]。そのうち、蒸気機関車の発明による鉄道敷設や、実験を重視する科学の発達が統一基準の普及を求め、電気単位への採用などを通じてメートルは広まった[53]。1796年から1797年にかけて啓蒙のためにパリの街中に16基設置されたメートル原器 (Metre-etalon)。写真は6区のヴォージラール通り(英語版)36
メートル原器詳細は「メートル法」、「メートル条約」、および「メートル原器」を参照
現実には、地球の地殻表面は単純な正球または楕円球ではなく、標準長を設定する際の絶対的な基準とするには馴染まない[50]。これが地球科学の発展で明らかとなってきた事に加え、ふたたび基準値を観測で得ようとすると、また地球を測るという費用と時間および労力をかけなければならないことから再現性が疑問視された[54]。このため、1869年にアルシーヴ原器そのものが副原器の立場からメートルの基準そのものと変更された[50]。
1870年代から、現代的な観点から新しいメートル法の規格を検討する一連の国際会議が開催された。1870年にフランスが主催した第1回国際メートル委員会は普仏戦争の影響で参加国が少なく実効的な決議を得られなかった[54]。1872年には第2回委員会が開かれ[54]、30本の原器を製作することが決まった[55]。これは、アルシーヴの原器を基準に[49]、白金90%とイリジウム10%の合金を用い、氷が融解する温度環境下で原器に刻まれた2本の目盛りの間を1mの基準とする[56]、全長102cm、「X」字型の断面はアンリ・トレスカが考案した形状が採用された[57])[51]。