メンフィス・レコーディング・サーヴィス
[Wikipedia|▼Menu]


サン・レコード社
メンフィス・レコーディング・サービス
アメリカ合衆国国家歴史登録財
アメリカ合衆国国定歴史建造物

サン・スタジオ
所在地アメリカ合衆国
テネシー州メンフィス
ユニオン・アヴェニュー703
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度08分20秒 西経90度02分17秒 / 北緯35.139度 西経90.038度 / 35.139; -90.038
面積0.9エーカー (0.36 ha)
NRHP登録番号03001031
指定・解除日
NRHP指定日2003年7月31日[1]
NHL指定日2003年7月31日[2]

サン・スタジオ (Sun Studio) はロックンロールのパイオニア的存在であるサム・フィリップスが、1950年1月3日のテネシー州メンフィス、ユニオン・アヴェニュー703にオープンした録音スタジオである。元々の名称は「メンフィス・レコーディング・サービス」で、サン・レコード・レーベルと同じ建物で営業していた。1951年に最初のロックンロール・シングルと評されるジャッキー・ブレンストン&デルタ・キャッツの「ロケット88」がレコーディングされた。1950年代前半にはハウリン・ウルフや、ジュニア・パーカーリトル・ミルトンB.B.キングジェイムズ・コットンルーファス・トーマス、ロスコー・ゴードンなどのブルースR&Bのアーティストもレコーディングでこのスタジオを使用している。

1950年代後半には無名アーティストのデモのレコーディングを含むロックンロールカントリー・ミュージックロカビリーのアーティストのほか、ジョニー・キャッシュエルヴィス・プレスリーカール・パーキンスロイ・オービソン、チャーリー・フェザース、レイ・ハリス、ウォーレン・スミス、チャーリー・リッチなどがサン・レコードと契約を交わした。

サム・フィリップスは1959年に、上記ユニオン・アヴェニューのスタジオに取って代わる、より大きなスタジオ「サムC.フィリップス・レコーディング・スタジオ」(「フィリップス・レコーディング」の名称で有名)をオープンした。サムがホリデイ・イン・ホテルに投資をしてからは、ケモンズ・ウィルソンの依頼でホリデイ・イン・レコードのレコーディングも1963年から手がけるようになった。しかし、サム・フィリップスが1969年にシェルビー・シングルトンにレーベルを売却以降、1985年9月に行われたチップス・モーマンプロデュースの『クラス・オブ・'55 』のレコーディング・セッションまでの間、スタジオではレコーディングやレーベル関連の活動はなくなった。

1987年にサン・レコード・レーベルとメンフィス・レコーディング・サービスが入っていた元々の建物が、ゲイリー・ハーディーの手によって「サン・スタジオ」の名で再オープンし、U2デフ・レパードボニー・レイットリンゴ・スターなど多くの著名アーティストを引きつけた。
フィリップス・レコード

1950年1月、ラジオ局WRECのエンジニアであったサム・フィリップスが長年の友人マリオン・カイスカーをアシスタントとしてユニオン通り706番地にメンフィス・レコーディング・サービスを開業した[3]。フィリップスは若い頃から自身のレコード会社を所有することが夢であり、これが実現してとても喜んでいた。しかし軌道に乗せるのは容易なことではなかった。初動費用のため、フィリップスは会議、結婚式、合唱、葬式のためにレコーディングを行なった。彼はまた門戸を開放し、小額で誰でもレコーディングできるようにした。フィリップスのスタジオのスローガンは「何でも、どこでも、いつでも録音する」ことだった[3]。6月、フィリップスと友人で地元のDJであるドゥーイ・フィリップス(親戚ではない)が自身のレコード会社フィリップス・レコードを立ち上げた[4]。この会社の目的は、どこでレコーディングしたらいいのかわからない南部の黒人アーティストのレコーディングを行なうことであった。しかしヒットに恵まれず、ジョー・ヒル・ルイスの『Boogie in the Park 』が400枚弱売れたのみであった[5]

フィリップス・レコード倒産後、フィリップスはチェス・レコードやモダン・レコードなど他のレコード会社と取引を始め、デモ・テープを彼らに渡し、アーティストのためにマスター・テープをレコーディングした[5]。この頃、フィリップスは最初のロックンロールと考えられているジャッキー・ブレンストンの『Rocket 88 』をレコーディングした[3]。何人かの伝記作家はこれをフィリップスの独創的創造性により比類のないサウンドの曲を生み出したとしたが、レコーディングで使用されたアンプが壊れていたために曖昧なサウンドになっただけだとする者もいる[5]
サン・レコード

1952年初頭、フィリップスは再度自身のレコード会社を始めた。これがサン・レコードである[3]。1年目にレコーディングしたB.B.キング、ジョー・ヒル・ルイス、ルーファス・トーマスハウリン・ウルフなど様々なアーティストが成功するようになった。ここで多くの人々がレコーディングするようになったにもかかわらず、利益を上げることは難しかった。ラジオ局や販売業者にプロモーションするために1年に6万マイルを運転した。コスト削減のため、当時通常5%だったロイヤルティーを3%に抑えた。フィリップスは再度倒産の危機に瀕し、アルコールに手を出すようになり精神科に入院し、電気けいれん療法を受けたとされる[3]

1953年、『ハウンド・ドッグ』に似たルーファス・トーマスの『Bearcat 』がサン・レコードの最初のヒット曲となった。しかし著作権法違反となり、サン・レコードは危うく破産するところであった[6]。にもかかわらずフィリップスは6月の出獄を言い渡されたばかりの黒人カルテットであるザ・プリゾネアズがシングル『Just Walkin' in the Rain 』をレコーディングし、1956年、ジョニー・レイが歌ってヒットするなど[7]、他の様々なアーティストのレコーディングを行ない、事業を続けることができた。この曲は大ヒットし、地元紙がレコーディング秘話について興味を持った。何人かの伝記作家は7月15日の『Memphis Press-Scimitar 』紙の記事がエルヴィス・プレスリーがサン・スタジオでレコーディングするきっかけとなったと考えている[8]
エルヴィス・プレスリーサン・スタジオのフロント・オフィス。オフィス・マネージャーであったマリオン・カイスカーは、若き日のエルヴィス・プレスリーをはじめ、スタジオに初めて訪れる多くのアーティストの応対をしていた。

1953年8月、6月に高等学校を卒業したばかりの18歳のプレスリーがサンの事務所にやって来た。アセテート盤で『My Happiness 』、『That's When Your Heartaches Begin 』を数分でレコーディングするつもりであった。後にプレスリーが語ったところによると、このレコードは母親にプレゼントする予定だったか、単に自分の歌声に興味があったかで、雑貨屋の近くにより安いアマチュア・レコーディングがあったにもかかわらずサンでレコーディングを行なった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:41 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef