メンデレーエフ
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科学的特性の類似する元素はほぼ同じ原子量であるか(例:白金イリジウムオスミウム)、原子量が規則的に増加するか(例:カリウムルビジウムセシウム)である。

元素グループ内での原子量順に並べた元素の配列はいわゆる原子価だけでなく、ある範囲まで、独特の化学的特性と一致する。

広範囲に存在している元素の原子量は小さい。

分子の大きさが化合物の性質を決定するように、原子量の大きさが元素の性質を決定する。

未知の元素の発見が期待される。たとえば、共に原子量が65から75の間であり、化学的特性がアルミニウムに類似する元素およびケイ素に類似する元素が存在するであろう(後年、該当するガリウムゲルマニウムが発見される)。

元素の原子量は原子番号順で前後する元素の原子量に関する知識により修正できることがある。たとえば、テルルの原子量は123から126の間にあり、128にはなりえない。

元素の特徴的な特性はその原子量から予言できる。

周期表の考えは発表当初は疑いの目で見るものも多かった。「それなら、今度はA, B, C, …の順に並べてはどうだ」という者もいたという。しかし、メンデレーエフが周期表に空欄を作って予言したとおりの場所に、1875年にガリウム、1879年スカンジウム1886年にゲルマニウムと次々と新元素が発見されたことから正確さが確かめられ、高く評価されるようになった[1]。なお、メンデレーエフが周期表を発表した数ヵ月後にドイツロータル・マイヤーが事実上同一の表を発表しており[2]、周期表はメンデレーエフとマイヤーの共同成果であると考える者もいるが、未発見の元素の予測の質がよかったため、メンデレーエフ単独の功績とみなされている。

1890年、サンクトペテルブルク大学の学生の奨学金増額要求を文部大臣イワン・デリャーノフに取り次ぎ、拒否されるとそれに抗議して同大学を辞職した。

辞職した後、海軍省の依頼で無煙火薬を研究し1891年までにピロコロジオンを発明した[3]

1892年王立協会外国人会員選出。同年、メンデレーエフは ⇒度量衡局の所長となった。メンデレーエフは死去するまで度量衡局の局長を務めた[4]

メンデレーエフの研究は、1906年ノーベル化学賞にノミネートされるも、たった一票の差でアンリ・モアッサンに敗れる[5]。翌年に死去。
逸話

1869年2月17日、元素の原子量とその化学的特性との関係について考えていたメンデレーエフは、そのまま眠りに落ちてしまった。居眠りの最中、彼は夢の中で、すべての元素が原子量の順に並んだ表を見た。目を覚ました彼は即座にその表を紙に書いた。彼はこの表から、元素を原子量の順に並べると化学的特性が周期的に繰り返されるという発想を思い付いた[6][7]

当局に追われるイワン・セチェノフを一時期、自身の研究所に雇い入れて庇護した[8]

ドミトリ・メンデレーエフの息子ヴラジーミルは海軍少尉として1891年から1892年にかけて長崎に数回寄港し、日本人ヒデシマ・タカとのあいだに娘フジをもうけた[9]。その後、ドミトリ・メンデレーエフはヒデシマに養育費を送った[10]

娘のリュボーフィは、詩人のアレクサンドル・ブロークと結婚する。ブロークの死後は共産党政権の支配がおよんでいなかった南ロシアに逃亡した。メンデレーエフ家のアパルトマンは1919年からブロークの友人で画家のユーリイ・アンネンコフが借りて住んでいた[11]
ウォッカに関する口承

度量衡局長となったメンデレーエフが、ウォッカの製造技術の標準化に携わり、「ウォッカはアルコールを40%含む」と規定されるきっかけを作ったとする話が伝わっている[12]。実際には、度量衡局でそのような規定を定めた事実はない[13]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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