メロス包囲戦
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その理由は、メロス人はスパルタの殖民都市であり、アテナイに服従せずに中立を維持していたが、アテナイが味方につくよう強要したことにより敵側に回ったためである[1]。将軍たちは降伏と服従を求めるべく交渉のための使節を送ったが、スパルタからの救援を信じたメロス人はアテナイ側の要求を拒否し、抗戦を決めた。これを受け、アテナイ軍はメロス包囲を開始し、攻城壁を構築して兵士を配置すると、一部を残して大半を引き上げさせた[2]。しかし、その冬にメロス軍が包囲壁の一部を奪取したのを受け、フィロクラテス率いる第二次遠征軍が派遣された。その結果メロス人は無条件降伏し、成人男子全員が処刑され、女子供は奴隷にされるという苛烈な処置を受けた。なお、メロス人の期待したスパルタからの援軍は最後まで来なかった。その後、アテナイは500人を送り出してメロス島に入植した[3]

紀元前405年、スパルタのリュサンドロスがアテネ軍を破ったのち、メロス島からアテネの入植者を追放し、奴隷として生存していた子女らをメロス島へ戻すとともにスパルタへ併合した。
^ トゥキュディデス, V. 84
^ トゥキュディデス, V. 114
^ トゥキュディデス, V. 116

参考文献

トゥキュディデス著、城江良和訳、『歴史』(2)、京都大学学術出版会、2003年


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