2012年より、バズとデイルが、ベーシストのトレヴァー・ダン(ミスターバングル、トマホーク他)と共同で、「メルヴィンズ・ライト」としての活動も開始。ジャレッドとコーディが加わる以前と同じく3ピース体制となっている。トレヴァーは、バズの参加しているサイドプロジェクト「ファントマス」のバンドメイトであり、過去のライブの際にもサポートメンバーとして時折参加していた。ただし、このプロジェクトの大きな特徴として、トレヴァーはアップライトのベースをプレイし、エレキ・ベースもアンプも一切使用していない。また、バズやデイルもヴィンテージ物の楽器を使用するなど、古風なロックを目指している。
この他、バズとデイルが、元メンバーのマイク・ディラードを迎え、「結成当初と同じメンバー」[6]という触れ込みで、不定期にライブを開催(ディラードは、サポート扱い)。2012年には、このメンバーで制作されたEP『1983』がリリースされた。このように、従来のヘヴィな作風にこだわらず、幅広い演奏スタイルを繰り広げた。
2013年より、ベースのジャレドが家庭を優先するため活動休止。それに伴い、バットホール・サーファーズのジェフ・ピンカスを迎えて活動。また、サイドギタリストとして、同バンドのポール・レアリーも、メルヴィンズのツアーにゲスト出演。
2014年、当時のライブ・ツアーでの編成で新アルバム『ホールド・イット・イン』をリリース。
2015年、11月に新木場STUDIO COASTで開催されたHostess Club Weekenderに出演[7]。 ブラック・フラッグのアルバム『マイ・ウォー』時代の攻撃的なパンク・ロック/ハードコア・パンクと、スワンズやフリッパー(FLIPPER ドラマーのデイル・クローヴァーの出身地であるアバディーンに住んでいたカート・コバーンは、クローヴァーの良き友人であると同時に熱狂的なメルヴィンズのファンであった。きっかけは、カートが高校生の頃、バズと知り合ったことだった。カートは、バズからブラック・フラッグなどのレコードやカセットを貸してもらい、自身のギターの練習に活用していた。一時期、カートが結成していたバンド・フィーカル・マターで、ドラマーとして、デイルや、マイク・ディラード、ベースにオズボーンを迎えていた時期もある。しかし、バズがメルヴィンズとしての活動で忙しいこともあって、バンドは解散した。 また、メルヴィンズのコンサートにも、何回か機材を運ぶローディーとして参加したことがある。他にも、カートがベーシストとしてメルヴィンズのオーディションを受けたこともあるが、緊張のあまり、すべての曲を忘れてしまい不合格となっている。 その後も、メルヴィンズのメジャー・デビューアルバム『フーディーニ』の数曲のプロデュースを手掛けたほか、数曲ほどバック・ミュージシャンとして参加するなど、カートが亡くなるまでバンドとの親交は続いた。また、ドラムを務めていたデイヴ・グロールは、元々バズの知人であった。彼の紹介でニルヴァーナのドラムのオーディションに参加し、見事にメンバー入りを果たした。 他にも、バンドは、ニルヴァーナのライブでも何度か前座を務めていた。カートが亡くなる約一ヵ月前にミュンヘンで開催されたライブでも、前座として出演。このとき、舞台裏でカートから「これからはソロでやっていくつもりだ」と囁かれたという。一ヵ月後、カートが自殺を図り、皮肉にもこれがカートとバンドの最後のやり取りになってしまった。 1994年にリリースされたアルバム『Prick』は、元々カートの名前を冠するつもりでリリースする予定であったが、彼の突然の死を受けて、タイトルの変更を余儀なくされている。 後に、1999年にリリースしたアルバム『The Crybaby』では、彼らの代表曲であった「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」を、ゲスト・ボーカルにレイフ・ギャレットを迎えてカバーしている。
音楽性
エピソード
ニルヴァーナとの関係
2度の大地震に遭遇