近代的で忙しい大都市のイメージのシドニーと比べると、歴史的な建物や文化が残り [注釈 1]、落ち着いて住みやすい印象を持たれている。ヴィクトリア朝時代の建築物がロンドンに次いで多く残っている都市である。メルボルンは世界的な学術都市でもあり、多くの留学生を受け入れている[4]。
2002年と2004年の2度、『エコノミスト』誌の「世界で最も暮らしやすい都市」で1位を獲得している。2022年、アメリカのシンクタンクが公表したビジネス・人材・文化・政治などを対象とした総合的な世界都市ランキングにおいて、世界第8位の都市と評価されており、オーストラリアではシドニー(17位)を抑えて首位となった[5]。 ポートフィリップとヤラ川の辺りは30000年前からその地に住むと思われる先住民族クリン (Kulin) の地であった。彼らは漁業、狩猟、採集などを行いポートフィリップの豊かな資源によって生活していた。ヨーロッパの移民により持ち込まれた病気に多くが打撃を受け、虐待、誤治療、アルコール、性病、によってクリンの人々の数は急激に減った。クリンは1870年代までに滅びてしまい、今日メルボルンに住むアボリジニーの殆どは他の地域から来た人々である。今日アボリジニーの歴史を残すものは少ない。例えばカヌーに使われた木がメルボルンクリケットグラウンドの近くにある他、ポートフィリップ沿岸にある貝塚くらいである。 1798年にウェスタンポート
歴史1890年のビクトリア州議事堂コリンズ通りとキング通りの角にある 19 世紀のグランド ホテル、フェデラル コーヒー パレスは、1971 年に取り壊されました主要記事:History of Melbourne、Timeline of Melbourne history
初期
バス海峡の北岸はクジラ狩猟者、アザラシ狩猟者が20年ほどいた。1824年ハミルトン・ヒュームとウィリアム・ホヴェルは陸路でNSWからウェスタンポートを目指してきたが、代わりにコライオ湾に着き、良質な放牧地を発見する。10年後、タスマニアで放牧をしていたエドワード・ヘンティは後のビクトリア州西部、ポートランド(英語: Portland, Victoria)の王領地に違法で羊牧地を設立した。
北タスマニアで成功していた農家ジョン・バットマンは更に放牧地を求めて1835年4月、バス海峡をポートフィリップに渡りヤラ川の河口に着く。6月8日彼の手記に、「そしてボートは広い河を上った... そして... 6マイル上流に良質でとても深い河を見つけたことを嬉しく思う。この場所は村を作るのに適している (英: This will be the place for a village.)」と書いてある。この最後の文は後にメルボルン建設憲章として採用されている。
バットマンはローンセストン (Launceston) に戻りヤラに居住地を拓くための大規模な探検の準備をする。しかし同時期にその時にはローンセストンで実業家となっていたジョン・パスコ・フォークナー(英語: John Pascoe Fawkner)は同じアイディアを持っていた。フォークナーはスクーナー船エンタープライズ号を買い、移住しようとする人々とともに1835年8月にヤラ川の河口に到着し、8月30日に代理艦長を務めていたJohn Lanceyは居住地になる土地を選び、船の碇と荷物を下ろした。そのスポットはヤラ川北岸、のちのスペンサー・ストリートとキングス・ブリッジ周辺で、エンタープライズ・パークとバットマン・パークとなっている場所で、そのすぐ北東には移民博物館がある。
一方でバットマンはレベッカ号で出航し、9月2日にヤラに着いたが既にフォークナーの人々がいるのに落胆し、憤慨した。2つのグループにとって十分な土地があり、10月16日フォークナーが他の居住者とともに到着すると、彼は土地を分配して、誰が最初に着いたかで論争しないことに同意した。バットマンとフォークナーは新しい町に住み、幾つかの仮の名前がその町に使われたが、1837年3月に時の英国首相メルバーン卿にちなんで正式に "Melbourne" と名付けられた。