メルセデス・ベンツ
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Sクラスをはじめとした高級セダンSUVは、高額所得者、政治家、セレブリティが嗜好するなど肯定的な印象があるとして知られる一方で、暴力団[8]などの威圧的な人間が乗る車[9]、成金趣味の象徴でビバリーヒルズの歯医者の車[10]、古今東西の独裁者達の愛車[11][12]、など否定的な印象も存在する。冷戦時代は外交官の公用車としても普及し[10]、西側陣営の自動車会社にもかかわらず東側諸国の外交官が利用することも多く「ペルソナ・ノン・グラータ向けの車」と揶揄されることもあった。

カー・アンド・ドライバー誌が国道246号青山通りで定期定点観測している車種別通行ランキングで、トヨタなど日本の大衆車よりも多く、社用車としての登録が多いEクラスが1位の常連で、登録、使用本拠の地域的偏在も大きい。
商用車、営業車、多目的車路線バス O407

バスやバン、特殊車両なども含めた商用車の主な市場は、ヨーロッパのほか、中東アジアラテンアメリカ諸国などである。商用バン・スプリンターや、ミニバンであるVクラスの商用版Vitoは様々な仕様が存在しヨーロッパ各地で使用されているほか、北アメリカでは、スプリンターがバッジエンジニアリングを受け、クライスラーから「ダッジ・スプリンター」として販売されている例がある。

フランスルノーからはカングーを基にした小型商用車を「シタン」の名でOEM供給されている。

韓国双竜自動車は技術供与を受けて商用バンMB100を基にイスタナを生産し、MB100と共に東南アジア圏などで広く利用されている。日本ではダイムラー・トラック子会社のバスなどを三菱ふそうトラック・バスが販売、多目的商用自動車であるウニモグワイ・エンジニアリングが販売している。
その他

エンジンやトランスミッションを他社へ供給し、かつてはポルシェジャガーに自社製のATを供給した。日本で加藤製作所などの重機メーカーでメルセデス製ディーゼルエンジンを搭載した製品があり、日産自動車インフィニティブランドの一部車種にメルセデス製エンジンを搭載した。近年は子会社のメルセデスAMGパガーニアストンマーティンロータスに自社製のエンジンを供給している。
来歴

社史はダイムラー・ベンツダイムラーに詳述がある。
成り立ち

1886年にドイツの技術者、カール・ベンツによって創設された世界最古の自動車メーカーの1つで、1886年に世界初の自動車として初の特許を取得した。当時は自動車の有用性に気が付く者はなく「交通の主役であるを怖がらせる邪魔者」であった。

妻のベルタ・ベンツは、夫の発明を世間に認めてほしいと考え、1888年8月5日に、夫が寝ている間に2人の息子と車に乗りマンハイムの町を出発した。当時の道は舗装されておらず、空気タイヤもまだ自転車用が発明されたばかりでその過酷さは余りあるものだった。ガソリンスタンドもなく、薬局でシミ抜き用のベンジンを購入してそれを給油しながら旅を続けた。やがて陽の暮れる頃、106km離れたプフォルツハイムの町に到着する。車の回りに人々が集まり、ベルタたちに賞賛の声を送った。この時の速度(距離と時間)は、当時の馬車なら10頭以上の馬を乗り換えなければならないほどのもので、この成功により夫の発明は知られるようになり、妻は世界初の女性ドライバーとして自動車長距離旅行の歴史に名を残すことになる。

1920年代より当時ヨーロッパで盛んになっていたモータースポーツに積極的に参戦し、数々の好成績を収めその名声を確固たるものにした。

1926年にベンツとほとんど同時期にゴットリープ・ダイムラーが創設したダイムラーと合併した。


1886年製ベンツ・パテント・モトールヴァーゲン。世界最初の自動車ではない。1894年製ベンツ・ヴェロ

ナチスへの協力770でパレードするアドルフ・ヒトラー

国家社会主義ドイツ労働者党の党首にしてドイツの指導者であったアドルフ・ヒトラーは、政権獲得後の1933年2月11日、国際ベルリンモーターショーにおける開会宣言で新時代の交通機関である自動車と自動車道路の建設に注目し、モータリゼーションを加速することが国家の防衛力を高めることになると説いた。これ以降政府は自動車税の撤廃、アウトバーン建設、国有鉄道にトラック輸送部門の新設等の政策を打ち出した。そのヒトラーの愛車はメルセデスベンツの770Kだった[13]

ナチスは党内に国家社会主義自動車軍団 (NSKK) を設け、運転技能者育成を始める。ベンツは運転教官の派遣、教習車の無償提供、国家社会主義ドイツ労働者党機関への役員の派遣等で積極的に対応し、国家社会主義ドイツ労働者党の強力なバックアップにより、グランプリ・レース、ル・マン24時間ミッレミリアなどのレースで同じくバックアップを受けるアウトウニオンなどとともに活躍した。

1935年のドイツ再軍備宣言以降のドイツの軍備拡張を支える企業として、戦闘機のエンジンや軍用車両などの生産を行なった。1939年9月に勃発した第二次世界大戦中は軍需生産に集中して、連合軍の爆撃の標的になるなどして、ドイツの敗戦までの約6年間に壊滅的な損害を受ける。大戦中にユダヤ人や連合軍の捕虜を大量に強制労働者として使用したことから、戦後多額の賠償金を支払うことになった。300SL
名車Mクラスを改造したパパモビル(謁見用教皇車)に乗るベネディクト16世

1950年代以降のドイツ経済の回復に合わせるように、有名な300SLや、ミッレミリアル・マン24時間レースで大活躍した300SLRなどの数々の名車を送り出す。


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