メリナ王国
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^Andriamanitra o! Tahionao ny Mpanjakanay
メリナの王権の象徴であったサムピ(英語版)と呼ばれるタリスマン(英語版)。熱烈なキリスト教徒であったラナヴァルナ2世(英語版)は、女王位に就くと同時にサムピを焼却してしまった。

メリナ王国(マダガスカル語: Fanjakan'Imerina)は、16世紀ごろに成立し、19世紀末にフランス植民地帝国に併合される形で消滅したマダガスカルの内陸、中央高地の君主制国家である。イメリナ王国ともいう。19世紀前半にはメリナ王が対外的に「マダガスカル王」と呼ばれたためマダガスカル王国と呼ばれる場合がある。
地理「マダガスカルの地理」、「メリナ人」、および「フヴァ(英語版)」も参照

メリナ王国が成立したマダガスカル島中央高地は、島の脊梁山脈の西側斜面、標高800から1800メートルに位置し、低緯度の割には気温が低めで雨季と乾季が交替するモンスーン気候である[1]:28-32[2][3]。地質学的に中央高地の景観を描写すると、先カンブリア時代に形成された岩盤、マダガスカル・プレート(英語版)が侵食されたことにより形成された、なだらかな丘と雨裂谷(ラヴァカ)からなる地形が見渡す限り続く、といった景観である[1]:23-27。マダガスカル中央高地の景観

先史時代にはこうした地形が、さらに森林で覆われていたものと推定されている[3]。マダガスカル島はユーラシア大陸などと比較して生物相が特殊であり、食用になる野性の植物や動物が極端に少ない。島の最深部である中央高地における国家形成は比較的遅い。最初に中央高地にやってきた人類は、マダガスカルの民話に登場する「ヴァジンバ(英語版)」と呼ばれる人々と推定されている。ヴァジンバは背が低く毛むくじゃらであったなどと森の精霊のように語られるが、歴史学上はメリナ人やベツレウ人に先行して中央高地の森林へ到達したオーストロネシア系の狩猟採集民と考えられている。

のちに「メリナ」へと統合される人々が、水田耕作の技術を携えて中央高地北部へ移住してきたのは、15世紀ごろと推定されている。彼らは丘の下の森を切り拓いて水田を作り、水田の周りに住居を配置した。高低落差の激しい場所には棚田が作られることもあった。こうした水田耕作に依拠した暮らしを営む人々は「フク」(foko)という村落共同体を形成した。フクの中には、分化した社会階層を備え、丘の上に「ルヴァ(英語版)」と呼ばれる城を築いて他の村落や森に住む人々との争いに備えるところも現れ始めた。
歴史メリナの伝統的な建築様式で建てられた家屋「メリナ王国の君主の一覧(英語版)」も参照
19世紀まで

19世紀後半に口頭伝承を書き留めて作られた年代記[注釈 1]によると、天から降りてきた神、アンヂアネリネリナ(英語版)がメリナ王国の始祖である[4][5]。同年代記では、その孫、アンヂアナンプンガ1世が初代メリナ王とされる[4][5]。アンヂアナンプンガ1世から7世代ほど下った16世紀にアンヂアマネル(英語版)が現れる[4][5]。アンヂアマネル以後は、伝承された系図が複雑化・具体化し[4][5][6]、実在の人物とみられる。1537年又は1540年ごろに母から王権を受け継いだアンヂアマネルを初代メリナ王と捉えることが多い[7]:238[8]:7。

アンヂアマネルは人々に農耕を教え、その息子ラランブ(英語版)は暦を作ったとされ、いわゆる「文化英雄」である。これらの王の時代から水田耕作を生業とするメリナ人が、周囲に広がる森に住む民ヴァジンバ(英語版)を同化してメリナに取り込むか、或いはさらに森の奥へ追いやるかして、その勢力範囲を広げた[7]:238。上記年代記ではアンヂアマネルの母ラフヒ(英語版)がアンヂアナンプンガからの王統を受け継ぐ者であり「メリナ」であるとされるが[4][5]、実際には「ヴァジンバ」の女王であったと見られる[7]:238。アンヂアマネルはまた、アラスラ(Alasora)の丘の上にメリナ王国の歴史上はじめてのルヴァ(英語版)を築いた[9]:244-245。

アンヂアマネルの4世孫[4][6]、17世紀後半から18世紀初頭ごろの王アンヂアマシナヴァルナ(英語版)はヴァジンバとの争いに勝ってアンブヒマンガの丘を手に入れた[7]:145[10]。アンヂアマシナヴァルナは新しい領地の統治を自治に任せず直接行い、中央高地北部の水田耕作民は統合された。アンヂアマネルからアンヂアマシナヴァルナまでの王が統治した領土がおおむねメリナ人の故地(ホームランド(英語版))とされ、「メリナ地方」又は「イメリナ地方」と呼ばれる。また、この頃までにルヴァが建てられた12の丘が聖地とみなされた(イメリナの12の聖なる丘(英語版))[9]:244-245[10]

しかしメリナ王国はその後、アンヂアマシナヴァルナの後継者争いにより分裂した。18世紀末、分裂した小王国のうちアンタナナリヴを中心とした王国にアンヂアナンプイニメリナ(英語版)が現れ、メリナを統一する[8]:9。次代のラダマ1世は北東部沿岸の港、トゥアマシナを手に入れるなど、メリナ王国の支配圏を大いに拡張した[8]:10-11。
19世紀前半.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}アンヂアナンプイニメリナ(在位1787年-1810年)時代の版図(左)とラナヴァルナ1世(在位1828年-1861年)時代前半の版図(右)

19世紀後半に口頭伝承を纏める形でカトリック神父により書かれた『マダガスカル貴族の歴史(英語版)』は、18世紀末から19世紀初頭にかけてメリナを治めたアンヂアナンプイニメリナ王の治世を理想とし、称揚することを目的として書かれている。アンヂアナンプイニメリナは人々を動員して灌漑を行い、沼沢地を水田に変えた。21世紀の現代まで続くアンタナナリヴ名物、金曜市(ズマの市)を慣例化させたのもアンヂアナンプイニメリナである。

アンヂアナンプイニメリナは1820年に亡くなるが、息を引き取るときに「海こそが我が水田の境なり」と言ったとされる。ここで言う「水田」は領土の意味で、要するに「マダガスカル島の全土をメリナ王国の領土とせよ」という意味である。息子のラダマ1世は遺言に従い、前王の治世下で増強された国力を引き継いでメリナの版図拡張に取り組んだ。

ラダマ1世の征服事業にはイギリスが大きく関わった。当時のインド洋の島々は、オランダ、フランス、イギリスが覇権を争い、各国は根拠地とコロニー作りにしのぎを削っていた[1]:119-122。この状況下でフランスが地元の首長からサント・マリー島を取得した。イギリス領モーリシャスの総督、ファーカー(英語版)はフランスに対抗するため、当時中央高地で国力の伸張が著しいメリナ王国を援助することにした[1]:119-122。第三次マラーター戦争(1817-1818)、第一次英緬戦争(英語版)(1824-1826)を戦っていたイギリスにマダガスカルに割ける余力はなかった。


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