メリナ王国
[Wikipedia|▼Menu]
1537年又は1540年ごろに母から王権を受け継いだアンヂアマネルを初代メリナ王と捉えることが多い[7]:238[8]:7。

アンヂアマネルは人々に農耕を教え、その息子ラランブ(英語版)は暦を作ったとされ、いわゆる「文化英雄」である。これらの王の時代から水田耕作を生業とするメリナ人が、周囲に広がる森に住む民ヴァジンバ(英語版)を同化してメリナに取り込むか、或いはさらに森の奥へ追いやるかして、その勢力範囲を広げた[7]:238。上記年代記ではアンヂアマネルの母ラフヒ(英語版)がアンヂアナンプンガからの王統を受け継ぐ者であり「メリナ」であるとされるが[4][5]、実際には「ヴァジンバ」の女王であったと見られる[7]:238。アンヂアマネルはまた、アラスラ(Alasora)の丘の上にメリナ王国の歴史上はじめてのルヴァ(英語版)を築いた[9]:244-245。

アンヂアマネルの4世孫[4][6]、17世紀後半から18世紀初頭ごろの王アンヂアマシナヴァルナ(英語版)はヴァジンバとの争いに勝ってアンブヒマンガの丘を手に入れた[7]:145[10]。アンヂアマシナヴァルナは新しい領地の統治を自治に任せず直接行い、中央高地北部の水田耕作民は統合された。アンヂアマネルからアンヂアマシナヴァルナまでの王が統治した領土がおおむねメリナ人の故地(ホームランド(英語版))とされ、「メリナ地方」又は「イメリナ地方」と呼ばれる。また、この頃までにルヴァが建てられた12の丘が聖地とみなされた(イメリナの12の聖なる丘(英語版))[9]:244-245[10]

しかしメリナ王国はその後、アンヂアマシナヴァルナの後継者争いにより分裂した。18世紀末、分裂した小王国のうちアンタナナリヴを中心とした王国にアンヂアナンプイニメリナ(英語版)が現れ、メリナを統一する[8]:9。次代のラダマ1世は北東部沿岸の港、トゥアマシナを手に入れるなど、メリナ王国の支配圏を大いに拡張した[8]:10-11。
19世紀前半.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}アンヂアナンプイニメリナ(在位1787年-1810年)時代の版図(左)とラナヴァルナ1世(在位1828年-1861年)時代前半の版図(右)

19世紀後半に口頭伝承を纏める形でカトリック神父により書かれた『マダガスカル貴族の歴史(英語版)』は、18世紀末から19世紀初頭にかけてメリナを治めたアンヂアナンプイニメリナ王の治世を理想とし、称揚することを目的として書かれている。アンヂアナンプイニメリナは人々を動員して灌漑を行い、沼沢地を水田に変えた。21世紀の現代まで続くアンタナナリヴ名物、金曜市(ズマの市)を慣例化させたのもアンヂアナンプイニメリナである。

アンヂアナンプイニメリナは1820年に亡くなるが、息を引き取るときに「海こそが我が水田の境なり」と言ったとされる。ここで言う「水田」は領土の意味で、要するに「マダガスカル島の全土をメリナ王国の領土とせよ」という意味である。息子のラダマ1世は遺言に従い、前王の治世下で増強された国力を引き継いでメリナの版図拡張に取り組んだ。

ラダマ1世の征服事業にはイギリスが大きく関わった。当時のインド洋の島々は、オランダ、フランス、イギリスが覇権を争い、各国は根拠地とコロニー作りにしのぎを削っていた[1]:119-122。この状況下でフランスが地元の首長からサント・マリー島を取得した。イギリス領モーリシャスの総督、ファーカー(英語版)はフランスに対抗するため、当時中央高地で国力の伸張が著しいメリナ王国を援助することにした[1]:119-122。第三次マラーター戦争(1817-1818)、第一次英緬戦争(英語版)(1824-1826)を戦っていたイギリスにマダガスカルに割ける余力はなかった。ファーカーはラダマ1世に「マダガスカル王」の称号を公式に認めた[1]:119-122。

ラダマ1世はファーカーから武器と弾薬の提供を受け、軍事教練も受け入れた[1]:119-122。さらに、ロンドン宣教会の布教を許し、宣教会による学校の設立も許可した[1]:119-122。ラテン・アルファベットによるマダガスカル語表記の導入も行った[1]:119-122。メリナ王国はラダマ1世が王位にあった8年間で、フランスが保護国化を目論んでいた西海岸のサカラヴァの諸王国を含むマダガスカル島全体の3分の2程度にまで、その版図を大きく拡大した[1]:119-122。

ラダマ1世は慢性的な酒の飲みすぎが原因で世を去ったと言われている[9]:42。彼の第一夫人が女王ラナヴァルナ1世(英語版)として即位した[9]:45。ラナヴァルナ1世に対する同時代のヨーロッパ人の評判はよくない。理由は彼女がキリスト教の布教を禁じ、領内にいたほとんどの西洋人を追放したためである[9]:61,74。その一方で、ジャン・ラボルド(英語版)のように宮廷に残ることを許された西洋人は事実として存在し、1836年にはイギリスに外交使節も送っている。女王の30年余りの治世は、イギリスとフランスの間でマダガスカルの主権を保つための苦闘の連続であった[11]。女王の人となりはサヴィカ(ゼブ闘牛)を好み、晩年はたびたび輿に乗って野原へ出かけ、庶民に混じって闘牛を見物したという。なお、通説では、ラダマ1世は開明的で進歩的であったのに対し、ラナヴァルナ1世は保守的で頑迷な君主であったと理解されてきたが、ラダマは1825年の時点で既に、イギリスとの同盟が実利を生まず、イギリス帝国主義がメリナ王国をモーリシャス総督の劣位において支配下に置こうとしていることに気づき、アウタルキーを志向する政策の転換を行い、ラナヴァルナはラダマの方針を引き継いだだけという説も提出されている[11]
19世紀後半閲兵するライニライアリヴニ(英語版)首相

ラナヴァルナ1世女王の晩年、メリナ王国の歴史は転機を迎える。ラダマ1世の頃に設立されたロンドン宣教会の学校で学んだフヴァ(自由民、平民)エリートが、サカラヴァやアンタイムルなどへ繰り返された外征の中で軍功を立てるようになった。1852年に首相に指名されたライニヴニナヒチニウニ(英語版)と、その弟の軍司令官ライニライアリヴニ(英語版)はそのような経歴で政治の中心的人物になった。

1861年にラナヴァルナ1世が亡くなると、晩年の女王を補佐していた息子のラクトゥ王子がラダマ2世(英語版)として即位した[9]:87,99。ラダマ2世は「メナマソ menamaso」あるいは「赤目」[注釈 2]という自分の取り巻きたちと常に一緒に行動し、1863年5月に争いごとを解決するのに「決闘」を用いることを法制化しようとした[9]:101-103。ライニヴニナヒチニウニ首相が金曜市でのその法律の発布をためらっているうちに、ライニライアリヴニに率いられた軍隊が宮殿を包囲し、11人の「赤目」たちの引き渡しを王に要求。しかし引き渡された「赤目」たちは全て殺害されたうえ、その後貴族層の軍士官らのグループが宮殿に押し入ってラダマ2世を絞首により暗殺した[9]:105。ラダマ2世暗殺後、君主位はラダマ2世の王妃だったラスヘリナ(英語版)、ラナヴァルナ2世(英語版)、ラナヴァルナ3世(英語版)と、いずれも女性が継承し、兄の後を継いだライニライアリヴニ首相と名目上の婚姻をした[1]:123-127。首相は夫として君主を補佐する形式で王国運営の実質的な実務を行った[1]:123-127。ラナヴァルナ2世は家庭教師だった宣教師の影響でプロテスタントに改宗し、宮廷のレガリア・サムピを焼き捨てるなどキリスト教化を強引に進め、森林保護のため焼き畑炭焼き木造家屋の建設を禁止し、レンガ造りの建築を推進するなど従来の体制を大きく変革した。

ラダマ2世は王子時代に、フランスの商人ランベール(英語版)に対してマダガスカルにおける権益を認める特許を発行していた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:46 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef