そして、第一の目標であるコンスタンティノープルの攻略に着手した[27][35]。
コンスタンティノープル攻略コンスタンティノープルに入城するメフメト2世 (ジャン=ジョゼフ=バンジャマン・コンスタン,1876)メフメト2世とゲンナディオス2世詳細は「コンスタンティノープルの陥落」を参照
カラマン討伐の帰路で、メフメトはボスポラス海峡のヨーロッパ岸にルメリ・ヒサルを建設することを命令した。東ローマの使者はルメリ・ヒサルの建設に抗議したが、メフメトは砦の建設は協定に違反するものではないと返答し、使者を追い返した[36]。ルメリ・ヒサルはかつて曾祖父のバヤズィト1世がアナトリア岸に建設したアナドル・ヒサル(英語版)と共に海峡を監視し、ボスポラス海峡を通過する船舶を捕捉する態勢を整える[37][38][39]。ボスポラス海峡を通過する船舶は通行税を徴収され、イタリア半島のジェノヴァやヴェネツィアが行っていた東方交易に痛手を与えた[40]。
オスマン帝国によるコンスタンティノープルの包囲はバヤズィト1世(1390年 - 1402年)、ムラト2世(1422年)に続く3度目であったが、メフメトは過去の包囲の教訓を生かし、長期の包囲戦を避けて短期決戦を選んだ[41]。ハリル・パシャらはヨーロッパのキリスト教徒の攻撃を招くと包囲に反対したが、ザガノス・パシャらメフメトの側近は包囲を支持する[42]。1453年4月6日[43]、メフメトは反対を押し切ってコンスタンティノープルの包囲を開始した。
包囲中、主戦派と反戦派の間にたびたび衝突が起きたが、ハンガリーの技師ウルバン (Orban) が改良した大砲は、コンスタンティノープルの城壁に大きな損害を与えた[44]。同年5月29日にオスマン軍はコンスタンティノープルを攻略、東ローマ帝国を滅ぼした[5][45][46][47]。コンスタンティノープルに亡命していたオスマン帝国の皇族オルハンは逃亡を図ったが、失敗し死亡した。
コンスタンティノープルの陥落はヨーロッパに強い衝撃を与え、オスマン帝国にとっての歴史的な転換点ともなった[48]。
コンスタンティノープル征服後、極力町の被害を抑えたいと考えていたメフメトは市内で行われている略奪を取り締まり、治安を取り戻そうと試みた[49][50]。城内のキリスト教徒に自由を保障し、ガラタ地区に住むジェノヴァ人が東ローマ時代に認められていた特権を再確認した[51]。[45][52]。6月1日、ゲオルギオス・スホラリオス(ゲンナディオス2世)をコンスタンティノープル総主教に叙任する[45]。
また、コンスタンティノープル征服の直後に利敵行為を働いた罪で、ハリル・パシャとその一族、従者を投獄した[53]。同年8月にメフメトはハリル・パシャを処刑し、多額の財産を没収する[54]。代わりにバルカン出身のザガノス・パシャを新たな大宰相に起用し、中央集権化の第一歩を踏み出した[11]。
ベオグラード包囲の失敗1456年のベオグラードの攻防
コンスタンティノープル征服後も、メフメトは征服事業を継続する[55]。
1454年、セルビア公ジュラジ・ブランコヴィチに割譲した領土の返還を求めるが、ジュラジは返還を拒否する。メフメトはセルビアに遠征してジュラジに改めて臣従を誓わせ、1455年の冬からベオグラード遠征の準備を始める[56]。
1456年7月にメフメトが率いるオスマン軍はベオグラードの包囲を開始、メフメトとオスマン軍の指揮官の多くは容易にベオグラードを攻略できると楽観視していた[57]。しかし、ドナウ川に浮かぶオスマン軍の艦船はドミニコ会修道士カピストラヌスが率いる民衆の攻撃を受けて壊滅し、ベオグラード市内に突入したオスマン軍はフニャディ・ヤーノシュの反撃を受けて惨敗した[58]。従軍していたイェニチェリの多くが戦死し、メフメト自身も額に傷を負った[59]。
帰国後すぐ、メフメトはベオグラードでの敗戦を忘れるかのように、息子バヤズィトとムスタファの割礼の式日にエディルネで大々的に宴会を開いた[60]。宴会では学者たちのディベート、スポーツの競技会が開かれ、町の住民に金銭を与えた[60]。
オスマン軍が撤退した翌日にフニャディは没するが、この敗戦によってオスマン帝国はハンガリーへの進出を一時中断しなければならなかった[55]。ベオグラードでの攻防はキリスト教国にオスマンに対する勝利を確信させ[61]、敗れたメフメトは征服の目標をバルカン半島の内部に変えた[62]。また、教皇カリストゥス3世はヨーロッパの王侯に反オスマン連合の結成を呼び掛けたが、結成に積極的な返事は得られなかった[63]。 ベオグラードの敗北と同じ時期[64]、ルーマニアのモルダヴィアを臣従させ、モルダヴィアに和平と引き換えの貢納金を課した。また、ワラキアではヴラド・ツェペシュが公に即位する。メフメトはワラキアとモルダヴィアを臣従国としながらも、一定の自治を認めていた[65]。
ペロポネソス半島、セルビアの征服
1458年春にメフメトはペロポネソス半島に進軍し、ソマスとディミトリオスは宮廷から逃走する。ペロポネソス半島の3分の1がオスマン帝国の支配下に入り、ソマスとディミトリオスには領土の保持と引き換えに貢納金を課した[67]。また、メフメトは遠征で獲得したパトラの立地と整備された海港に着目し、町を発展させるために住民を保護し、特権を付与した[68]。同年、オスマンの将軍エメルの策略により、アテネ公国がオスマン帝国に併合される[69]。
1458年初頭よりセルビアは後継者問題で反オスマン派と親オスマン派に分かれており、親オスマン派はメフメトにセルビアへの派兵を要請した[70]。初めにセルビアには宰相マフムト・パシャを司令官とする軍隊が派遣され、メフメトはモレアス遠征の帰路にマフムト・パシャの軍に合流する。