メフメト2世
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メフメトはイタリアなどから知識人を招聘し、ギリシャ語の文献を収集する、ヨーロッパ文明にも関心を持つ人物だった[8]。コンスタンティノープル攻略後、メフメトは歴史家クリトヴォロスを初めとする東ローマの学者たちを厚遇する[51]。彼がイタリアから招聘した画家ジェンティーレ・ベリーニは16か月の間イスタンブールの宮廷に滞在し、メフメトの肖像画などの作品を残した。イタリアの人文主義者、芸術家たちは、メフメトが学芸の保護者であるという評判を聞き、イスタンブールの宮廷を訪れたいと願っていた[132]。しかし、メフメトがイタリアの人文主義者たちを保護した目的の1つには、イタリアの政治・軍事情報の獲得があったとも考えられている[133]

一方で宮廷でペルシア人、イタリア人、ユダヤ人が重用されていたことに、トルコ人の間では不満が起きていた[134][135]。メフメトが没する数年前から、アマスィヤの知事を務めていたメフメトの長子バヤズィトの周りにはメフメトの政策に反対する派閥ができていた[118]。メフメトとバヤズィトの関係は悪化し、メフメトはバヤズィトの宮殿を監視していたが、派閥の形成は抑止できなかった[118]

メフメトの崩御後、彼が保管していた絵画は、皇帝に即位したバヤズィトによって破壊・売却される[136]
趣味

メフメトは園芸に熱中しており、宮殿内の庭園で草花を栽培していた。遠征先でもユリスイセンチューリップバラなどの植物を探し、宮廷に持ち帰っていた[128]

ほかに工芸を趣味としており、木、象牙、貴金属の細工を楽しんでいた[128]
政策1481年のメフメト2世没時のオスマン帝国の勢力図
帝国の中央集権化

イスタンブールの宮廷を頂点とする軍事・行政の体制はメフメト2世の時代から形作られていき、統治の規則は『カーヌーン・ナーメ(法令)』に成文化された[137]。また、『カーヌーン・ナーメ』には征服地の法律も組み入れられていた[138]

1453年のコンスタンティノープル包囲における、メフメトの側近で構成される主戦派と旧勢力に代表される反戦派の対立は、オスマン宮廷の君臣間の関係を変容させる契機となった[139][140]。オスマン帝国は征服地を一族間で分割する遊牧民国家の慣習を克服し、中央集権化によって国家の永続性が保障された[11]。メフメトは初期のオスマン帝国で活躍したガーズィー(トルコ系の信仰の戦士)やアナトリア出身のトルコ系貴族を政界の中心から遠ざけ、代わってバルカン半島から徴収したカプクル(宮廷奴隷)出身の軍人・官僚を重用した[139]。奴隷として徴収した少年を養育するための教育制度を整備し、宮殿の近辺に彼らのための学校が設置された[141]。しかし、新たに台頭したカプクルと旧勢力の間に激しい抗争が起きる[119]

君臣関係の変化に伴い、古くからの宮廷の慣習は次第に廃れていき、代わりに君主の行動に儀礼的な要素が付加されていく[139]。メフメトは宮廷の空気を従前の遊牧民族的な雰囲気から、東ローマ的な権威ある雰囲気に変えようと試みている[126]。晩年にはスルタンが主催する御前会議のしきたりを改め、スルタンは後ろの部屋から会議を閲覧するようになった。また、スルタンが大臣たちと一緒に食事を摂る慣習も改め、別の部屋で食事を摂るようになる。
財政の状況

メフメト2世の治世でのオスマン帝国の領土の拡大と、それに伴う交易路の確保は帝国の経済を発展させ、国の収入は増加する[8]。国内各地の都市、都市間をつなぐ交易路にはキャラバンサライ(隊商宿)やハーン(個室付の隊商宿)などの隊商のための宿泊施設が建設された[92]。カッファ、ターナなどのオスマンの支配下に入った黒海沿岸部の都市では、経済活動がより活発になる。帝国の旧都であったブルサは絹織物の製造が盛んになり、またフィレンツェの商人が集まる絹・羊毛の中継交易地として発展した[142]

オスマン帝国の交易圏の拡大により東地中海におけるヴェネツィアの交易は打撃を受け、代わってオスマンと連携したフィレンツェが台頭した[143]

だが、繰り返し行われた遠征とイスタンブールの開発事業によって財政は逼迫し、貨幣の改鋳は状況を悪化させた[119]。メフメトの治世の農業と経済の発展において利益を得られたのは、一部の商人、投資家、特権階級など限られた層のみであり、大部分の民衆に利益は還元されなかった[123]。また、メフメトは塩や石鹸といったいくつかの日用品に専売制度を設けて増収を図ったが、同時代の人間からの評価は悪かった[144]

メフメトの次に即位したバヤズィト2世は、民衆の不満の元となっていたメフメトが設置した新税を廃止し、支出を極力抑えて財政を再建しなければならなかった[145]。しかし、在位中の財政難にもかかわらず、結果的にメフメトの進めた領土の拡大は長期にわたって帝国に利益をもたらすことになる[146]
イスタンブールの開発トプカプ宮殿ファーティフ・モスク
イスタンブール

コンスタンティノープル征服後、メフメト2世は町をイスラム教徒の居住地とし、減少した人口を回復させるために様々な政策を打ち出した[147][注釈 1]。メフメト治下のイスタンブールでは、宗教、公共施設や商業施設の建設が推進され、メフメトと同時代のギリシャ人歴史家クリトヴォロスは、イスタンブールの復興事業やキリスト教徒の保護を称賛した[75]
イスラーム都市の建設

アヤソフィアなどのキリスト教の教会はモスクに改築され、新たに建立されたモスクを中心にイスラム教徒の居住区(マハッレ)が形成された[148]

メフメトの治世の末期、かつて聖使徒大聖堂(英語版)が存在していた場所に、おそらくはスルタンの権威を示すためにファーティフ・モスク(英語版)が建立された[149]

モスクの周辺にはメドレセ(学院)、病院、救貧院などの付随する施設も建てられた[150][151]。メドレセには各地から学生が集まり、イスラームの諸学を修めた。

東ローマ時代の水道設備は修復された上、新たな上水道が引かれたことで、市民は生活用水を得ることができた[152]

これらの施設の建設と運営にあたっては、商店を宗教施設にワクフとして寄進し[153]、商店の賃貸料と売り上げから運営費を捻出した[149]。1457年ごろから[149]、施設の運営費を賄うためにイスタンブールには多くのバザールが作られ[151]グランドバザールの原型もメフメトの治世に完成する。

オスマン皇帝の宮殿は、当初グランドバザールの西(後にイスタンブール大学が置かれた場所)に造営されたが、市場に近いという理由で別の場所への移転が検討される[154]

1465年にイスタンブール旧市街の東端に新たな宮殿の建設を開始し、1478年に新宮殿が完成した。新しい宮殿は大砲が置かれた門にちなんでトプカプ宮殿と呼ばれるようになり、オスマン皇帝の住居、帝国の政治の中心地となった[155]
多民族都市としてのイスタンブール

町の復興にあたっては、東ローマ時代からの市民は保護を受け、帝国各地の異なる民族をイスタンブールに移住させた。イスタンブールにはイスラム教徒だけでなく、独自の技術と人脈を持つギリシャ・アルメニアのキリスト教徒やユダヤ人も集められ、イスタンブールは他文化が共存する町となった[156]


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