メフメト2世
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同年5月29日にオスマン軍はコンスタンティノープルを攻略、東ローマ帝国を滅ぼした[5][45][46][47]。コンスタンティノープルに亡命していたオスマン帝国の皇族オルハンは逃亡を図ったが、失敗し死亡した。

コンスタンティノープルの陥落はヨーロッパに強い衝撃を与え、オスマン帝国にとっての歴史的な転換点ともなった[48]

コンスタンティノープル征服後、極力町の被害を抑えたいと考えていたメフメトは市内で行われている略奪を取り締まり、治安を取り戻そうと試みた[49][50]。城内のキリスト教徒に自由を保障し、ガラタ地区に住むジェノヴァ人が東ローマ時代に認められていた特権を再確認した[51][45][52]。6月1日、ゲオルギオス・スホラリオス(ゲンナディオス2世)をコンスタンティノープル総主教に叙任する[45]

また、コンスタンティノープル征服の直後に利敵行為を働いた罪で、ハリル・パシャとその一族、従者を投獄した[53]。同年8月にメフメトはハリル・パシャを処刑し、多額の財産を没収する[54]。代わりにバルカン出身のザガノス・パシャを新たな大宰相に起用し、中央集権化の第一歩を踏み出した[11]
ベオグラード包囲の失敗1456年のベオグラードの攻防

コンスタンティノープル征服後も、メフメトは征服事業を継続する[55]

1454年、セルビア公ジュラジ・ブランコヴィチに割譲した領土の返還を求めるが、ジュラジは返還を拒否する。メフメトはセルビアに遠征してジュラジに改めて臣従を誓わせ、1455年の冬からベオグラード遠征の準備を始める[56]

1456年7月にメフメトが率いるオスマン軍はベオグラードの包囲を開始、メフメトとオスマン軍の指揮官の多くは容易にベオグラードを攻略できると楽観視していた[57]。しかし、ドナウ川に浮かぶオスマン軍の艦船はドミニコ会修道士カピストラヌスが率いる民衆の攻撃を受けて壊滅し、ベオグラード市内に突入したオスマン軍はフニャディ・ヤーノシュの反撃を受けて惨敗した[58]。従軍していたイェニチェリの多くが戦死し、メフメト自身も額に傷を負った[59]

帰国後すぐ、メフメトはベオグラードでの敗戦を忘れるかのように、息子バヤズィトとムスタファの割礼の式日にエディルネで大々的に宴会を開いた[60]。宴会では学者たちのディベート、スポーツの競技会が開かれ、町の住民に金銭を与えた[60]

オスマン軍が撤退した翌日にフニャディは没するが、この敗戦によってオスマン帝国はハンガリーへの進出を一時中断しなければならなかった[55]。ベオグラードでの攻防はキリスト教国にオスマンに対する勝利を確信させ[61]、敗れたメフメトは征服の目標をバルカン半島の内部に変えた[62]。また、教皇カリストゥス3世はヨーロッパの王侯に反オスマン連合の結成を呼び掛けたが、結成に積極的な返事は得られなかった[63]
ペロポネソス半島、セルビアの征服

ベオグラードの敗北と同じ時期[64]、ルーマニアのモルダヴィアを臣従させ、モルダヴィアに和平と引き換えの貢納金を課した。また、ワラキアではヴラド・ツェペシュが公に即位する。メフメトはワラキアとモルダヴィアを臣従国としながらも、一定の自治を認めていた[65]

ペロポネソス半島に残る東ローマ系国家モレアス専制公国では、共同の君主であるソマスとディミトリオスの兄弟が互いに争っており、ベオグラード包囲後に兄弟はオスマンへの貢納を拒否する[66]。メフメトは何度も貢納の再開を要求するがモレアスは返答せず、メフメトはペロポネソス半島への親征を決定する。

1458年春にメフメトはペロポネソス半島に進軍し、ソマスとディミトリオスは宮廷から逃走する。ペロポネソス半島の3分の1がオスマン帝国の支配下に入り、ソマスとディミトリオスには領土の保持と引き換えに貢納金を課した[67]。また、メフメトは遠征で獲得したパトラの立地と整備された海港に着目し、町を発展させるために住民を保護し、特権を付与した[68]。同年、オスマンの将軍エメルの策略により、アテネ公国がオスマン帝国に併合される[69]

1458年初頭よりセルビアは後継者問題で反オスマン派と親オスマン派に分かれており、親オスマン派はメフメトにセルビアへの派兵を要請した[70]。初めにセルビアには宰相マフムト・パシャを司令官とする軍隊が派遣され、メフメトはモレアス遠征の帰路にマフムト・パシャの軍に合流する。1459年春にオスマン軍はボスニア王ステファン・トマシェヴィッチよりスメデレヴォを譲渡され[71]、ベオグラードを除くセルビアの征服を完了した[72]

さらにセルビアの征服はボスニアへの進出の足掛かりとなり、1460年にボスニアへの攻撃を開始した[73]。貴族間の抗争と、ボスニア王国で迫害を受けていたボゴミル教徒の支持により、オスマン軍のボスニア進出は容易に進んだ[73]。オスマン軍はボスニア内に要塞を建設するとともに、農民に保護を与えて支持を得ていく[74]。ステファン・トマシェヴィッチはローマ教皇に宛てて、自国の窮状とメフメトがイタリア、ダルマチア、ハンガリーの征服を企てていることを訴える書簡を送った[74]

1459年初秋、メフメトはギリシャ各地を訪問した[75]。歴史家ミカエル・クリトヴォロス(英語版)は、メフメトは廃墟や遺跡を見学し、住民が語るギリシャの歴史に耳を傾けたと伝えている[75]。また、1459年の初頭より、ペロポネソス半島では教皇庁と西ヨーロッパの援助を受けたソマスの指導による反乱が発生していた[76]。西ヨーロッパが反乱に加担していることを知ったメフメトは軍隊を派遣するが、モレアス側との交渉は失敗し、混乱はより拡大する[76]

1460年5月にメフメトはペロポネソス半島に再び親征を行い、1461年春に遠征を終えて帰国する[77]。1461年7月に1年にわたってオスマン軍に頑強に抵抗していたサルモニコンが陥落したことでモレアス専制公国の征服が完了し、ペロポネソス半島の大部分がオスマンの支配下に入った[78]。ソマスはイタリアに逃亡し、オスマンに降伏したディミトリオスはメフメトから手厚い保護を受けた[79]
トレビゾンド帝国の併合

1460年、アナトリア北部の東ローマ系国家トレビゾンド帝国の皇帝ダヴィドは、同盟国である白羊朝の力を頼みにして、毎年オスマンに支払う貢納金の免除を申し出た[62][80]。メフメトはこの要求に怒り、トレビゾンドを中心とするアナトリア北部の黒海沿岸部の征服を計画した[80]


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