行軍中、黒海に面する港湾都市スィノプを支配するペルヴァーネ侯国がオスマン帝国に降伏する。メフメトは進軍中に白羊朝と協約を結んで援軍の到達を阻止した後、トレビゾンドを包囲した[81]。財産と家族の安全を保障されたダヴィドはメフメトに降伏し、メフメトはトレビゾンド帝国を併合した[82]。併合から数年後、メフメトはダヴィドに白羊朝との内通の嫌疑をかけ、彼をイスラームに改宗した息子の1人を除いた家族と共に処刑する[82]。
ワラキアとの戦争19世紀にテオドール・アマンによって描かれたワラキア軍の夜襲
1459年にワラキアに課した貢納金を増額した際、ワラキア公ヴラド・ツェペシュは貢納金の支払いを拒否し、メフメトが詰問に向かわせた使者たちはヴラドによって処刑された[83]。1461年から1462年にかけての冬、オスマンの守備隊はテレオルマンでワラキア軍の攻撃を受けて敗北する。1462年にメフメトはワラキアに親征するが、ヴラドはゲリラ戦術を展開して抗戦した[84]。6月16日、メフメトの宿営はワラキア軍の夜襲によって大きな損害を受け(トゥルゴヴィシュテの夜襲)、6月中にメフメトはワラキアから撤退した[84]。同年夏、メフメトはヴラドの実弟であるラドゥ3世を指揮官とする遠征軍を新たにワラキアに派遣する。ワラキア国内の貴族の離反とハンガリーの妨害によってヴラドは失脚し、トランシルヴァニアに亡命したが、ハンガリー国王マーチャーシュ1世に逮捕されてブダに幽閉された[85]。
1462年にオスマン軍はヴェネツィア領のレスボス島を占領する。
ボスニア王ステファン・トマシェヴィッチはローマ教皇の使節に激励され、セルビアの支配権を要求し、オスマンへの貢納を拒否した[86]。メフメトはボスニアに親征し、ステファンを首都のヤイツェから放逐し、クリウクスに追い詰める。1463年に降伏したボスニアのステファン・トマシェヴィッチを処刑し、一部の地域を除くボスニアを併合した[73][74]。しかし、ヤイツェはマーチャーシュの手に落ち、占領には至らなかった[86]。
1464年8月、反オスマン十字軍を計画していた教皇ピウス2世が病没し、ヨーロッパ諸国が連合してのオスマン攻撃は中止される[87]。
1468年に長きにわたってオスマン帝国のアルバニア征服を阻止したスカンデルベグが没する。スカンデルベグの死を知ったメフメトは歓喜し、アジアとヨーロッパ両方の征服が達成されることを確信する[88]。
1470年、オスマン艦隊はヴェネツィアの支配下にあったネグロポンテと近隣の島々を制圧する。ヴェネツィアの要所の1つであるネグロポンテの陥落はイタリアに恐怖を与え、ヴェネツィア出身の教皇パウルス2世はアヴィニョンへの避難さえ計画した[89]。
ウズン・ハサンとの戦いウズン・ハサン
1464年にメフメトはカラマン侯国で起きた後継者争いに介入し、領土の割譲を条件にピール・アフメド・ベイを支援した[90]。ピール・アフメドは即位後に領土の返還を要求してオスマンと対立し[90]、1466年にオスマン軍はカラマンの領土を攻撃し、コンヤ、カラマンを征服する。ピール・アフメドは白羊朝のウズン・ハサンに庇護を求め、[90][91]トレビゾンドとカラマンの併合は、オスマン帝国と白羊朝との関係を悪化させる[92]。
ウズン・ハサンは東西交易の拠点の確保を望むヴェネツィアと同盟し、オスマンの挟撃を試みた[93]。ヴェネツィアは白羊朝との同盟にあたり、大砲と火薬の供給を約束した[94]。
1471年にメフメトが残存するカラマン朝の領土を攻撃すると、ピール・アフメドはウズン・ハサンに助けを求めた。オスマンに領地を奪われた他のベイリクの君主もウズン・ハサンの元に集まり、アナトリアのオスマン領を攻撃した。メフメトは宰相ルム・メフメトパシャを罷免して左遷していたマフムト・パシャを宰相に復職させ、アナトリアに配置していた息子と総督にウズン・ハサンの攻撃を命じた[95]。オスマン軍はベイシェヒル(英語版)近郊で白羊朝軍に勝利するが、メフメトは次の戦闘に備えて徴兵と物資の補充を行った[95]。
1472年、ウズン・ハサンはオスマンとの和約を破棄し、カラマン侯国の旧領の帰属を巡る問題に介入する[96]。ヴェネツィアはウズン・ハサンの元に大砲を届けようとしたが、オスマン艦隊はヴェネツィア艦船を捕らえ、大砲の到着を阻止する。1473年にオスマン軍とウズン・ハサンが率いる白羊朝軍はアナトリア東部のオトゥルクベリで交戦する(オトゥルクベリの戦い(英語版))。オスマン軍はウズン・ハサンに勝利し、カラマン侯国の旧領はオスマン帝国に組み入れられた[97]。戦後、オスマン軍はカラマンに帰国したピール・アフメドを放逐し、ピール・アフメドは再びウズン・ハサンの元に逃亡した[90]。
1474年、息子ムスタファが亡くなる。ムスタファは、大宰相マフムト・パシャと彼の妻を巡って争い、マフムト・パシャによって暗殺されたと考えられている[98]。 1460年代末からクリミア半島のモンゴル系国家クリミア・ハン国では王位を巡る内争が起きていた[99]。1475年、クリミア・ハン国の有力部族シリン族の要請を受けて、メフメトは大宰相ゲディク・アフメト・パシャを総司令官とする艦隊をクリミアに派遣した。オスマン艦隊はカッファ(フェオドシヤ)、タナ、アゾフを占領し、ジェノヴァに捕らえられていたクリミア・ハン・メングリ1世ギレイを解放し、復位させる。オスマン艦隊の攻撃によって、クリミア半島一帯からジェノヴァ、ヴェネツィアの勢力は一掃された[100]。 メングリ1世は1468年に即位した際に送った書簡で自国がオスマン帝国と対等の関係にあると主張していたが、1475年の復位後にオスマンへの臣従の意思を表明した[99]。チンギス・ハーンの子孫を従属下に置いたことでイスラーム諸国以外に、カザン・ハン国などのモンゴル系国家やモスクワ大公国にもオスマン帝国の権威は知れ渡る[99]。 1472年よりモルダヴィアのシュテファン大公は貢納金の支払いを拒否し、ポーランド、ハンガリー、ヴェネツィア、教皇庁に反オスマン連合の結成を呼び掛かけていた。1474年にメフメトはモルダヴィアにキリア
クリミア・ハン国の臣従
ルーマニアでの戦争
1475年1月のヴァスルイの戦い(英語版)で、オスマン軍はモルダヴィア軍に敗北した。ヨーロッパ諸国はシュテファンの勝利を称賛し、ムラト2世の寡婦はかつてない敗北を喫したと回顧した[101]。しかし、ヴァスルイの戦いはオスマン軍のヨーロッパ方面での戦略に影響を与えるには至らず、シュテファンもオスマン軍の再度の攻撃に備えた連合の結成を呼び掛けていた[102]。