メフメト2世
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

オスマン帝国は征服地を一族間で分割する遊牧民国家の慣習を克服し、中央集権化によって国家の永続性が保障された[11]。メフメトは初期のオスマン帝国で活躍したガーズィー(トルコ系の信仰の戦士)やアナトリア出身のトルコ系貴族を政界の中心から遠ざけ、代わってバルカン半島から徴収したカプクル(宮廷奴隷)出身の軍人・官僚を重用した[139]。奴隷として徴収した少年を養育するための教育制度を整備し、宮殿の近辺に彼らのための学校が設置された[141]。しかし、新たに台頭したカプクルと旧勢力の間に激しい抗争が起きる[119]

君臣関係の変化に伴い、古くからの宮廷の慣習は次第に廃れていき、代わりに君主の行動に儀礼的な要素が付加されていく[139]。メフメトは宮廷の空気を従前の遊牧民族的な雰囲気から、東ローマ的な権威ある雰囲気に変えようと試みている[126]。晩年にはスルタンが主催する御前会議のしきたりを改め、スルタンは後ろの部屋から会議を閲覧するようになった。また、スルタンが大臣たちと一緒に食事を摂る慣習も改め、別の部屋で食事を摂るようになる。
財政の状況

メフメト2世の治世でのオスマン帝国の領土の拡大と、それに伴う交易路の確保は帝国の経済を発展させ、国の収入は増加する[8]。国内各地の都市、都市間をつなぐ交易路にはキャラバンサライ(隊商宿)やハーン(個室付の隊商宿)などの隊商のための宿泊施設が建設された[92]。カッファ、ターナなどのオスマンの支配下に入った黒海沿岸部の都市では、経済活動がより活発になる。帝国の旧都であったブルサは絹織物の製造が盛んになり、またフィレンツェの商人が集まる絹・羊毛の中継交易地として発展した[142]

オスマン帝国の交易圏の拡大により東地中海におけるヴェネツィアの交易は打撃を受け、代わってオスマンと連携したフィレンツェが台頭した[143]

だが、繰り返し行われた遠征とイスタンブールの開発事業によって財政は逼迫し、貨幣の改鋳は状況を悪化させた[119]。メフメトの治世の農業と経済の発展において利益を得られたのは、一部の商人、投資家、特権階級など限られた層のみであり、大部分の民衆に利益は還元されなかった[123]。また、メフメトは塩や石鹸といったいくつかの日用品に専売制度を設けて増収を図ったが、同時代の人間からの評価は悪かった[144]

メフメトの次に即位したバヤズィト2世は、民衆の不満の元となっていたメフメトが設置した新税を廃止し、支出を極力抑えて財政を再建しなければならなかった[145]。しかし、在位中の財政難にもかかわらず、結果的にメフメトの進めた領土の拡大は長期にわたって帝国に利益をもたらすことになる[146]
イスタンブールの開発トプカプ宮殿ファーティフ・モスク
イスタンブール

コンスタンティノープル征服後、メフメト2世は町をイスラム教徒の居住地とし、減少した人口を回復させるために様々な政策を打ち出した[147][注釈 1]。メフメト治下のイスタンブールでは、宗教、公共施設や商業施設の建設が推進され、メフメトと同時代のギリシャ人歴史家クリトヴォロスは、イスタンブールの復興事業やキリスト教徒の保護を称賛した[75]
イスラーム都市の建設

アヤソフィアなどのキリスト教の教会はモスクに改築され、新たに建立されたモスクを中心にイスラム教徒の居住区(マハッレ)が形成された[148]

メフメトの治世の末期、かつて聖使徒大聖堂(英語版)が存在していた場所に、おそらくはスルタンの権威を示すためにファーティフ・モスク(英語版)が建立された[149]

モスクの周辺にはメドレセ(学院)、病院、救貧院などの付随する施設も建てられた[150][151]。メドレセには各地から学生が集まり、イスラームの諸学を修めた。

東ローマ時代の水道設備は修復された上、新たな上水道が引かれたことで、市民は生活用水を得ることができた[152]

これらの施設の建設と運営にあたっては、商店を宗教施設にワクフとして寄進し[153]、商店の賃貸料と売り上げから運営費を捻出した[149]。1457年ごろから[149]、施設の運営費を賄うためにイスタンブールには多くのバザールが作られ[151]グランドバザールの原型もメフメトの治世に完成する。

オスマン皇帝の宮殿は、当初グランドバザールの西(後にイスタンブール大学が置かれた場所)に造営されたが、市場に近いという理由で別の場所への移転が検討される[154]

1465年にイスタンブール旧市街の東端に新たな宮殿の建設を開始し、1478年に新宮殿が完成した。新しい宮殿は大砲が置かれた門にちなんでトプカプ宮殿と呼ばれるようになり、オスマン皇帝の住居、帝国の政治の中心地となった[155]
多民族都市としてのイスタンブール

町の復興にあたっては、東ローマ時代からの市民は保護を受け、帝国各地の異なる民族をイスタンブールに移住させた。イスタンブールにはイスラム教徒だけでなく、独自の技術と人脈を持つギリシャ・アルメニアのキリスト教徒やユダヤ人も集められ、イスタンブールは他文化が共存する町となった[156]。東ローマ時代からの住民であったギリシャ人には手厚い保護が与えられ、イスラム教徒から不満が起こるほどだった[151]

しかし、アナトリアの住民の間にはイスタンブールの発展と移住に対する抵抗が見られ、時折強制移住策が実施された[137]。また、ジハードの継続を主張する人間の中には、依然としてヨーロッパ征服の前線基地であるエディルネを首都に置くことを支持する意見もあった[157]。メフメトの治世から民衆の間に「イスタンブールは呪われた町である」という噂が流れ、その噂の中ではメフメトの革新的な政策が批判された[158]
年表

1432年3月30日 - 誕生

1444年 - スルタンに即位(1446年まで)

1451年 - 父ムラト2世崩御。2度目の即位。

1452年 - ルメリ・ヒサールを建設

1453年 - コンスタンティノープルを攻略東ローマ帝国を滅ぼす

1456年 - ベオグラード包囲の失敗、アテネ公国を滅ぼす

1459年 - セルビア公国を滅ぼす、トプカプ宮殿の建設を開始

1461年 - モレアス専制公国トレビゾンド帝国を滅ぼす

1463年 - ボスニア王国を滅ぼす

1468年 - カラマン侯国の大部分を併合

1470年 - ネグロポンテを制圧

1472年 - オトゥルクベリの戦いで白羊朝に勝利

1475年 - クリミア・ハン国を服属させる

1476年 - モルダヴィアへの遠征

1478年 - アルバニアへの遠征

1479年 - ヴェネツィア共和国との講和、トプカプ宮殿完成

1480年 - ロドス島攻略の失敗、イタリア遠征オトラントの戦い(- 1481年)


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:123 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef