メフメト2世
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その征服活動よりしばしばアレクサンドロス大王と比較され、彼自身もアレクサンドロスの伝記を好んで読んでいた[7]

メフメトはイスラーム以外にヨーロッパの文化にも理解を示し[8]、宮廷には国際的な空気が流れていた[9]。そのため、ルネサンス君主の1人に数えられることもある[8]

メフメトの後に即位したオスマン帝国の皇帝はもっぱらイスラームの文化に関心を持ち、宮廷から多文化が共存する空気は失われた[10]
生涯
幼少期少年時代のメフメト2世の落書き。ビザンツの彫像[11]あるいはイタリアの絵画[12]に対する関心を表していると言われる。

オスマン皇帝ムラト2世とヨーロッパ出身の奴隷ヒュマ・ハトゥンの子として、首都エディルネの宮殿で生まれる[13]。幼少期は家庭教師のダイイ・ハトゥンに養育され、エディルネで過ごした[14]。継母であるセルビア公ジュラジ・ブランコヴィチ(英語版)の娘マラ(英語版)から東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを描いた絵を見せられ、町に強い興味を抱くようになる[15]

1443年、オスマン帝国の慣習に従ってメフメトはマニサに知事として赴任し、神学者グラニの元で勉学に励む[14]
最初の即位

オスマン帝国がハンガリー王国、カラマン侯国(英語版)と和約を結んだ後、1444年にメフメトは父から譲位されてスルタン位に就く。ムラトは大宰相のチャンダルル・ハリル・パシャにメフメトの補佐を任せ、マニサで隠遁生活を送った[16]。メフメトは補佐役のハリル・パシャをララ(じい)と呼んだが、打ち解けることはできなかった[17]

1444年9月、ハンガリーのフニャディ・ヤーノシュポーランド王ヴワディスワフ3世が率いるヨーロッパ連合軍がトランシルヴァニアブルガリアに侵入したとき、ハリル・パシャはメフメトには対処が困難だと考え、ムラトに復位を求めた[18]。ムラトはヴァルナの戦いでヨーロッパ連合軍に勝利した後に退位するが、1445年エディルネイェニチェリの反乱が起きた時、ムラトは再び復位を要請される[19]。1446年にメフメトは帝位を返上し、領地のマニサに戻った。メフメトは自身を軽んじたハリル・パシャに敵愾心を抱き、ザガノス・パシャらメフメトの側近たちは敵意を煽った[18]

領地に帰還したメフメトはヴェネツィア共和国の船舶を襲撃し、ネグロポンテなどのヴェネツィアの支配下にあるエーゲ海の都市や島を襲撃した[20]。一方でイスラーム世界や西欧の知識人をマニサに呼び寄せ、過去の歴史家や哲学者についての教えを受けていた[21]。時にはムラトの軍事行動に従軍し、1448年のコソヴォの戦い(英語版)や1450年のアルバニア遠征に従軍した。

アルバニア遠征から帰国後、ムラトはメフメトとアナトリアのドゥルカディル侯国の王女シット・ハトゥンの婚姻を成立させる。1450年から1451年にかけての冬、エディルネで3か月にわたる結婚式が開かれた[22]
2度目の即位1451年のメフメト2世の即位

1451年2月3日にムラトが崩御し、メフメトは父帝の崩御を知らせる使節が現れた時、彼らを喜んで迎えたという[23]。この時、報告を聞いたメフメトは「我を愛する者は後に続け」と叫んで馬にまたがり、エディルネに直行したと伝えられている[24][25]。同日、エディルネに到着したメフメトは2度目の即位を経験する。

即位に際して幼少の弟アフメトを風呂場で絞殺させ[26][25]、イェニチェリの忠誠を確保するために賞与を支払った[27]。後継者候補を殺害して内紛を事前に阻止する「兄弟殺し」の慣習は、メフメトの治世から慣例化されたと考えられており[28]ウラマー(イスラームの法学者)の賛同によって兄弟・甥殺しの法的効力が追認された[29]

即位の際にハリル・パシャと宰相のイスハク・パシャはオスマンの慣例に反してメフメトの反対の位置に立ったと言われ、メフメトの即位後にイスハク・パシャは地方に左遷される[30]。しかし、帝国の支配者層から支持を受け、強固な地盤を持つハリル・パシャはなおも中央に留まった[30]

メフメトはハンガリーと3年の休戦協定を結び、東ローマにも友好的な態度を示した[31]。ヨーロッパの国々は停戦を求めるメフメトの消極的な態度を見て安心し、いずれオスマンは内訌で衰退すると考えた[32][33]。さらにアナトリア半島のカラマン侯国はムラトの死に乗じて和約を破棄し、オスマン領に侵入した。東ローマはコンスタンティノープルに亡命していたオスマン帝国の皇族オルハンの解放を示唆し、帝国がオルハンの監視と引き換えに支払っていた身代金の増額を要求した[31][34]。メフメトは東ローマの要求を忌々しく思ったが、カラマンの攻撃に対処するために怒りを抑えて東ローマの使者を帰し、アナトリアに渡ってカラマン軍を打ち破った[34]

そして、第一の目標であるコンスタンティノープルの攻略に着手した[27][35]
コンスタンティノープル攻略コンスタンティノープルに入城するメフメト2世 (ジャン=ジョゼフ=バンジャマン・コンスタン,1876)メフメト2世とゲンナディオス2世詳細は「コンスタンティノープルの陥落」を参照

カラマン討伐の帰路で、メフメトはボスポラス海峡のヨーロッパ岸にルメリ・ヒサルを建設することを命令した。東ローマの使者はルメリ・ヒサルの建設に抗議したが、メフメトは砦の建設は協定に違反するものではないと返答し、使者を追い返した[36]。ルメリ・ヒサルはかつて曾祖父のバヤズィト1世がアナトリア岸に建設したアナドル・ヒサル(英語版)と共に海峡を監視し、ボスポラス海峡を通過する船舶を捕捉する態勢を整える[37][38][39]。ボスポラス海峡を通過する船舶は通行税を徴収され、イタリア半島ジェノヴァやヴェネツィアが行っていた東方交易に痛手を与えた[40]

オスマン帝国によるコンスタンティノープルの包囲はバヤズィト1世(1390年 - 1402年)、ムラト2世(1422年)に続く3度目であったが、メフメトは過去の包囲の教訓を生かし、長期の包囲戦を避けて短期決戦を選んだ[41]。ハリル・パシャらはヨーロッパのキリスト教徒の攻撃を招くと包囲に反対したが、ザガノス・パシャらメフメトの側近は包囲を支持する[42]1453年4月6日[43]、メフメトは反対を押し切ってコンスタンティノープルの包囲を開始した。

包囲中、主戦派と反戦派の間にたびたび衝突が起きたが、ハンガリーの技師ウルバン (Orban) が改良した大砲は、コンスタンティノープルの城壁に大きな損害を与えた[44]


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