メナヘム・ベギン
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1939年の9月、ナチスドイツによるポーランド侵攻を受けてベギンは人口の40%をユダヤ人が占め、YIVOが置かれているリトアニア共和国ビリニュスに亡命する。しかし1940年6月、リトアニアはすぐにソ連軍に侵攻され、多くのユダヤ人とポーランド人(当時のビリニュスの人口はほとんどがポーランド人で占められていた)が連行された。当時のメナヘム・ベギン、NKVDにより撮られた顔写真

1940年9月20日、ベギンは『イギリス帝国主義の扇動』を理由に8年の禁固刑を言い渡され、強制収容所に送られた。1941年の6月にはロシア北部のペチョラの強制労働収容所へ移り、1942年の5月まで過ごした。ベギンの手記「White Nights」にはこのペチョラでの尋問や生活の体験が描かれている。

1941年の7月、ドイツ軍によるソ連軍攻撃(バルバロッサ作戦)の後にポーランドとソ連のあいだで交わされたシコルスキマイスキー協定(Sikorski-Mayski Agreement)がロンドンで採択されると強制収容されていたポーランド人やユダヤ人が解放され、その中にはベギンも含まれていた。

シコルスキ=マイスキー協定によってソ連領内につくられた東部ポーランド軍のヴワディスワフ・アンデルスの部隊(Army of Anders)への入軍を経て、1942年の8月にソ連から離れ、ペルシア回廊を経由してパレスチナに到着したベギンは、そこで再びバタルの委員メンバーになることと、イルグンに入隊することを要望された。だがヴワディスワフ・アンデルスに軍人としての宣誓を誓い、通訳の仕事も努めていた彼は最初この申し出を断った。しかし、ベギンの退団が認められたためベギンはイルグンに入隊することになる。これにはイルグン側のポーランドに対する何らかの干渉があったとする説もある。

ベギンの家族は1941年6月、他のブレスト・リトフスクにいた約5000人のユダヤ人同様ナチスにより捕らえられ、父親は収容所に送られることも無く射殺、もしくは川に沈められた。また母親と兄のヘルツルもホロコーストにより殺害されたという[4]
イギリス委任統治への反対活動爆破直後のキング・ダビデ・ホテル

ベギンはイギリスの植民地主義に迎合しようとするダヴィド・ベン=グリオンらの姿勢に対し激しく批判的な人物として、また独立の手段としてイギリスに対するゲリラ行為を主張する人物として早くから名を上げていた。

イルグンに参加したベギンは、ユダヤ人国家の建設を認めたバルフォア宣言とそれと矛盾するマクドナルド白書(White Paper of 1939)の例を引き合いに出し、パレスチナからイギリスの軍隊を追い出し、影響力をなくすことを決意する[5]

そしてベギンは公式な発表として反乱を宣言し、イギリスに対するテロ活動が始まった。

1945年から46年の数ヶ月の間、イルグンの行動はハガナーの管理下に置かれる枠組みで合意がなされた。しかしこの体制はベギン率いるイルグンによるエルサレムキング・ダヴィデ・ホテル爆破事件で形骸化してしまう。ホテルにはイギリスの軍司令部を始め多くの情報機関が入っていた。この爆破が行われる少し前、イルグンはホテルに対し、中にいる全員をすぐに避難させるよう声明を出していた。しかしこの声明を受けたイギリス人はこれを無視した上、従業員に対して外に出ることを禁止したという。

この爆発ではイギリス軍人や役人だけでなくアラブ人やユダヤ人の民間人も含め合計91人の死者が出た。イルグンはさらに、アッコの受刑者の脱走を助けた(Acre Prison break)のみならず、イギリスがユダヤ人受刑者を処刑したことに対する報復として二人のイギリス人軍曹を誘拐し、ネタニヤの近くに吊るすという行為を行う(The Sergeants affair)。これによりユダヤ人の処刑は中止されたものの、イルグンのテロを鎮圧するためにさらに多くの軍人が動員されることとなった。吊るされたイギリス人軍曹の遺体

ベギンはラビに変装するなどして当局の目から逃れ続けた。MI5は、パレスチナ当局の長官の殺害を予告したベギンに対しついに、「この者を捕らえた者に10000ポンドの賞金を与える、ただし、生死は問わず。」という賞金首をかけた。

パレスチナにおけるイシューブ(ユダヤ共同体)であるユダヤ暫定政府を率いるベン=グリオンはイルグンの行為とその独立計画を批判し「ユダヤ人民の敵」とまで評した。1944年と1947年にハガナーはイルグンのメンバーを捕らえ、イギリス当局に引き渡した。この件でベギンはユダヤ人同士の衝突を避けるため暴力的な行為は抑えるよう部下に促した。1947年11月、国際連合はパレスチナの分割統治案である国連決議181号(United Nations Partition Plan for Palestine)を採択し、これにより1948年5月にイギリスはパレスチナからの完全撤退を決めた。
独立戦争

のちの第一次中東戦争であるイスラエル独立戦争の気運が高まるとともに、イルグンはアラブという共通の敵に対抗するためハガナー、レヒ(Lehi)などと共闘することになる。彼らの主な戦場はヤッフォでの戦いやヨルダン軍によるエルサレムユダヤ人居住区包囲などであった。

1948年4月の9日、イルグン、レヒはパレスチナ人の住むデイル・ヤシーン村(Deir Yassin)を敵の軍事拠点があるという理由で襲撃し、多数のパレスチナ人死者を出した(デイル・ヤシーン事件)。そして同年5月14日、イスラエル独立宣言の後6月1日、ベギンはベン=グリオン率いる暫定政府に対してイルグンを解散し、5月28日の政令4号によって正式に新しく創設されたイスラエル国防軍(IDF)に統合する協定に一度はサインをした。テルアヴィヴの海岸にあるアルタレナ号の碑

しかし、新しく出来たIDFに対して反発するメンバーは自分たちのチャーターした輸送船「アルタレナ号」を使って政府に秘密で武器の輸送を行っていた。協定に従えばすべての武器はIDFが管轄しなければならないため、政府は彼らに対して武器の引渡しを要求した。ベギンはこれに反発したが、ベン=グリオンは国家としての威信を果たすため軍に船を攻撃するよう指示し、テルアヴィヴの湾岸でイルグンメンバーとIDFが衝突することになる(Altalena Affair)。結局アルタレナ号はIDFの砲撃を受け撃沈し、以降イルグンは政府の指揮下に置かれる事となった。

このときのイルグンの行動について後にベギンは衝突が内戦化するのを避けるため、自分がメンバーに反撃しないよう命令したと語っている。また、政府のアルタレナ号への攻撃については正義に反する行為だったとも評している。


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