メディチ家
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フィレンツェ追放と君主化ジョヴァンニ・デ・メディチ(教皇レオ10世)ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレアレッサンドロ・デ・メディチジュリオ・デ・メディチ(教皇クレメンス7世)

ロレンツォが43歳で病死し、長男のピエロが家督を継ぐが、1494年シャルル8世率いるフランス軍の侵攻に対する対処を誤り(第一次イタリア戦争)、市民の怒りを買った。メディチ家はフィレンツェを追放され、メディチ銀行(イタリア語版、英語版)も破綻した。この失態からピエロは、ピエロ・イル・ファトゥオ(愚昧なピエロ)というあだ名で呼ばれることになった。その後ピエロはチェーザレ・ボルジアの軍と共に行動していたが、1503年に溺死した。このため、ピエロ・ロ・スフォルトゥナート(不運なピエロ)とも呼ばれる。

ピエロの死により、メディチ家の当主は弟のジョヴァンニ枢機卿(ロレンツォの次男)に継承された。1512年、ジョヴァンニを筆頭にしたメディチ家は、ハプスブルク家の援助を得てスペイン軍と共にフィレンツェに復帰し、その支配を再確立した。1513年、ジョヴァンニは教皇レオ10世として即位し(在位:1513年 - 1521年)、メディチ家はフィレンツェとローマ教皇領を支配する門閥となった。レオ10世は芸術を愛好し、ローマを中心にルネサンスの文化の最盛期をもたらしたが、多額の浪費を続けて教皇庁の財政逼迫を招き、サン・ピエトロ大聖堂建設のためとして大がかりな贖宥状(いわゆる免罪符)の販売を認めたことで、1517年マルティン・ルターによる宗教改革運動のきっかけを作った。1516年にレオ10世がウルビーノ公フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレを破門したことからウルビーノ戦争が勃発したが、レオ10世が抜擢したジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ(後の黒隊長ジョヴァンニ)に鎮圧された。

レオ10世は1521年に死去するが、2年後、従弟のジュリオ枢機卿が教皇クレメンス7世(在位:1523年 - 1534年)として即位する。クレメンス7世は当時の複雑な政治状況の中、フランスと同盟を結んだことで、1527年神聖ローマ皇帝スペインカール5世の報復を受け、ローマ略奪の大惨事を招く。同時にメディチ家も再度フィレンツェを追放されるが、1530年にはクレメンス7世と皇帝カール5世が和解したため、メディチ家はフィレンツェに帰還、復権する。1532年、クレメンス7世の息子(庶子)アレッサンドロがフィレンツェ公となり、メディチ家はついに正式な君主となった。

1533年にクレメンス7世は、フランス王フランソワ1世と縁組をまとめ、カトリーヌ・ド・メディシスと後のアンリ2世が結婚した。カトリーヌは10人の子を産んだものの、ユグノー戦争の末にヴァロワ朝は断絶。アンリ4世がメディチ家のマリー・ド・メディシスブルボン朝の血統をつくった。ルイ13世ルイ14世ルイ (グラン・ドーファン)ルイ16世の4人がハプスブルク家と政略結婚している。
トスカーナ大公国フランチェスコ1世・デ・メディチジャン・ガストーネ・デ・メディチ大公

フィレンツェ公アレッサンドロが1537年に暗殺されてコジモ・イル・ヴェッキオ以来の家系が断絶した後、傍系のコジモ1世が公位を継承し、1569年にはトスカーナ大公となった。コジモ1世は専制君主としてトスカーナ大公国を支配し、またフィレンツェを豪華な宮殿やモニュメントで飾り立て、現在見られるようなフィレンツェの景観を作り出した。コジモ1世の死後は子孫が代々トスカーナ大公位を継承したが、大航海時代宗教改革の影響でイタリア自体の西欧での地位が低下した。

フランチェスコ1世(在位:1574年 - 1587年)は、娘マリー・ド・メディシスフランス国王アンリ4世の2番目の王妃に据えることに成功し、息子ルイ13世を生んだ。マリーは、アンリ4世の結んだ対ハプスブルク家政略結婚の政治方針をことごとく破棄し、リシュリューを支援者として登用しようとした。成人したルイ13世は、マリーをブロワ城へ幽閉したが、1618年三十年戦争が勃発すると、1619年にマリーは脱出して反乱したが鎮圧された。講和条約ヴェストファーレン条約が結ばれ、ヴェストファーレン体制における列強にメディチ家の名前はもはやなかった。三十年戦争からイングランドへ帰国したチャールズ1世は増税を行なってイングランド内戦を誘発し、オリヴァー・クロムウェルが台頭する。フランス・スペイン戦争が継続され、フランスとクロムウェルの派遣したイングランド共和国の連合軍は砂丘の戦いに勝利し、1659年ピレネー条約を締結した。マリーの2人の孫、ルイ14世マリー・テレーズ・ドートリッシュが結婚し、スペインは50万エスクードを持参金としてフランスに支払った。こうしてスペインは没落し、フランスの覇権が始まった。

一方、トスカーナ大公国は、フェルディナンド1世(在位:1587年 - 1609年)を最後にしてイタリアの一小国になった。教皇位もレオ11世1605年に即位したが、1年もたたずに急死、以降メディチ家は教皇に任命されなかった。

1737年、第7代トスカーナ大公ジャン・ガストーネが後継者を残さずに死亡した。トスカーナ大公位は、ロレーヌ家のフランツ・シュテファン(神聖ローマ皇帝フランツ1世)が継承した。こうして、西ヨーロッパにその名を馳せたメディチ家は断絶した。なお、メディチ家の本家がフィレンツェを治める以前に分かれた家系メディチ・ディ・オッタイアーノ家(イタリア語版)が、女系でも本家と近縁関係にあったことからトスカーナ大公位を求めて運動したが、叶わなかった。この家系は、現在も血脈を保っている。
著名なメディチ家の人物

ジョヴァンニ・ディ・ビッチ(Giovanni di Bicci de' Medici、1360年 - 1429年)、メディチ銀行総裁、政治家。メディチ家における政治家一家の祖。 

コジモ・デ・メディチ(イル・ヴェッキオ)(Cosimo de' Medici detto il Vecchio、1389年 - 1464年)、フィレンツェにおけるメディチ支配を確立した(1434年 - 1464年)。

ロレンツォ・デ・メディチ(イル・マニフィコ)(Lorenzo de' Medici detto il Magnifico、1449年 - 1492年)、フィレンツェ・ルネサンスの黄金時代を築いた(1469年 - 1492年)。

ローマ教皇レオ10世、ジョヴァンニ・デ・メディチ(Giovanni de' Medici、1475年 - 1521年、在位:1513年 - 1521年)。


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