メディアミックス
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キャラクターなどの著作権を始めとする知的財産IP)を企業やメディアの垣根を超えて扱うという性質から、メディアミックスによる作品は業界用語でIPコンテンツないしはIPものなどと呼ばれている[2][3]。メディアミックスは和製英語であり、北米などではIPを他の企業やメディアにフランチャイズするという意味でメディア・フランチャイズ(media franchise)やマルチメディア・フランチャイズ(multimedia franchise)と称される。
広告

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起源

語の起源としてはメディアは「媒体」からミックスは「プロモーションミックス」からとられている。広告が効果を発揮するには3回の接触が必要、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}1人につき3回の広告接触頻度で十分[要検証ノート]とする大木克幸の「スリーヒッツ理論」を発展させた考えを基礎理論として、複数の異種媒体を用いてそれに合わせた最適な広告手段を計画すること。決められた広告費用で最大の広告効果を得ることが目的となる。
マーケティング

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出典検索?: "メディアミックス" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2019年2月)

歴史
日本でのメディアミックス

日本では、1973年小松左京の小説『日本沈没』の刊行直後から間髪を入れずに映画、ラジオドラマ、テレビドラマ等様々な形態で相次いで制作され、それらが相乗効果を生んでベストセラーとなったケースが大規模メディアミックスの嚆矢といえるが、代表的な成功例として挙げられるのは、その後角川書店が1970年代後半に自社発行書籍(小説作品)の映画化を行い、その原作作品を映画イメージと連動させた新装カバーを付けて売り込み業績を伸ばしたことで「メディアミックス」という言葉と共に注目された広告手法である[4]。これらの手法は当時、角川商法などと呼ばれたが[4]、角川は出版という宣伝メディアを持っていたため[5]、大規模な広告展開が出来た[4][5]。現在でも角川書店とその関連会社(アスキー・メディアワークス富士見書房など)は「日本のメディアミックス商業展開の元祖的存在」として取り上げられることが多い[4]。ただし、自社の書籍を映画化するという手法は徳間書店がそれよりも早く試みており、こちらを元祖だとする見方もある。

メディアミックスのような事例は日本でも昔からあり、例えば『月形半平太』などの作者行友李風が小説「修羅八荒」を大正14年(1925年)10月27日から、大正15年(1926年)8月12日まで大阪東京朝日新聞で250回連載したが[6]、連載終了前に松竹蒲田日活マキノ映画が参戦した三社による映画の競作が行われ[6]、さらにラジオ劇レコード化浪曲化舞台劇にも連載終了前に波及した[6]昭和3年(1928年)から昭和4年(1929年)には文学者の菊池寛が、自作の小説『東京行進曲』を、溝口健二監督で29年に映画化(映画自体は興行的に失敗)し、舞台化と主題歌のレコード化を共にヒットさせた[7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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