メディアミックス
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1970年代前半には、当時の岡田茂東映社長が、日本映画の将来の見通しが暗かったことから[8]、経営多角化の一つとして[9]、1973年に出版事業に乗り出し[10]黒崎出版と提携して『テレビランド』を創刊したり[10]徳間書店社長・徳間康快と組んで『アサヒ芸能』と原作を連動させ、映画『山口組三代目』を製作したり[11]成人向け劇画雑誌コミック&コミック』を創刊したことがあり[10][12][13]、この『コミック&コミック』で岡田と徳間が構想した目玉企画が、東映の映画監督が原作を担当した劇画作品を雑誌に連載した後、映画化するというもので[12][13][14]、この雑誌で連載された鈴木則文監督の『聖獣学園』が映画化された[13][14]。当時『アサヒ芸能』の特集部に在籍した鈴木敏夫は『コミック&コミック』で、東映の気難しい監督たちと若手劇画家を繋ぐ調整役だったといわれる[12][15]大塚英志は「映画と劇画を平然と往復しようとする大胆な感覚は、以降のスマートなメディアミックスを先取りしており野心的。岡田茂と徳間康快という二人の怪物による"劇画"と"映画"という『コミック&コミック』の近さは、やはり『ナウシカ』における"まんがから映画への近さの問題と地続きだと私には思える」などと論じている[12]

1970年代後半には、自主映画CMディレクター出身の大林宣彦東宝映画HOUSE』を撮ろうとして、企画としては1975年に東宝の会議を通ったものの[16]撮影所助監督経験のない大林が監督することに、当時の東宝の助監督たちが猛反対し、その後2年の間、映画製作は始まらず[16][17]。この事態に業を煮やした大林は「『HOUSE』映画化を実験するキャンペーン」と銘打って、映画製作より先に『HOUSE』ブームを起こしてやろうと積極的にメディアに露出したり、『HOUSE』をラジオドラマにしたり、コミック化ノベライズなど、大林主導で「メディアミックス」を仕掛けていき、これらが功を奏して知名度が上がって話題となり、東宝も企画を進めざるを得なくなって、2年後の1977年にようやく本体の映画化が決まったことがあった[16][18][19][20][21][22][23]。既存の映画界とは別のところで仕事をしていた大林と角川春樹は、ほぼ同時期にそれぞれの方法で「メディアミックス」を仕掛けていた[16]。これを「メディアミックス」の先駆と評価する見方もある[16]。大林の「メディアミックス」の成功は、助監督経験のない、撮影所育ちでない映画監督の出現という映画界に新しい流れを生み出している[18][24][25][26]。大林と角川が「メディアミックス」のヒントを得たのは、ともに1970年アメリカ映画ある愛の詩』である[16]


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