メッシーナ地震
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14イタリア・メッシーナ1908年12月28日82,000 - 120,0007.1
15トルクメニスタン・アシガバード1948年10月6日約110,0007.3
16日本・関東1923年9月1日105,3857.9
17中国・直隷1290年9月27日約100,0006.8

被害の状況

メッシーナやレッジョ・ディ・カラブリアでは、被災の時刻を「午前5時21分」として記憶している[5][8]

この地域の建築物は、脆弱な基礎の上に重い屋根を載せて建てられており、このような大地震に耐えられる構造とはなっていなかった[9]。建築方法・資材の強度が不十分であったばかりでなく、当地で過去15年にわたって頻発していた地震が家屋に損傷を与えていた[2]。救助隊は数週間にわたって瓦礫の中で生き埋めになった人々を捜索した。一家全員が数日後に救出されたケースもあったが、数千人はそのまま埋没死してしまった[10]

メッシーナでは、あらゆる通信・交通手段が寸断され、電線・ガス・街灯が損傷、津波の襲来によって建築物の90%が破壊された[5]
救援活動地震と津波による被害を受けたメッシーナ

被災地域の通信・交通は破壊されたため、震災の情報はイタリア海軍水雷艇によって、電信線が生き残っていたニコーテラにもたらされたが、それはようやくその日の深夜になってのことであった。震災は世界各地にトップニュースとして伝わり、国際赤十字の支援を受けて国際的な救助活動が行われることになった。

救援活動は海上から行われた[2]。イタリア海軍と陸軍は、捜索と負傷者の手当て、被災者の避難(艦船によって行われた)にあたった。また、略奪者には発砲が行われることになった。被災地には国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世夫妻も到着した[10]

地震発生直後から現地で救援活動を行い、住民の救助や避難に協力した外部の人々は、港に停泊していた艦船の乗組員であった。たとえばメッシーナ港に停泊していたイギリスの貨物船 SS Afonwen の船長らは被災地での救助活動をおこない、アルバート・メダル (Albert Medal for Lifesaving) を受けている[11]。地中海で活動していたロシア海軍イギリス海軍は、最初期から救援に入り[2]、水兵によって捜索と瓦礫撤去がすすめられたほか、医官による医療の提供が行われた[2]

ロシア海軍からは戦艦「ツェサレーヴィチ」「スラヴァ」および巡洋艦「アドミラル・マカロフ」「ボガトィーリ (Russian cruiser Bogatyr) 」が支援を命じられた。また、イギリス海軍からは戦艦「エクスマス (HMS Exmouth (1901)) 」、巡洋艦「ユーライアラス (HMS Euryalus (1901)) 」「ミナーヴァ (HMS Minerva (1895)) 」「サトレッジ (HMS Sutlej (1899)) 」が出動した。

フランス海軍からは戦艦「ジュスティス (French battleship Justice) 」「ヴェリテ (French battleship Verite) 」と駆逐艦3隻が派遣され、アメリカ海軍は世界一周航海を行っていたグレート・ホワイト・フリートと補給艦2隻に支援を命じた[8]。また、ドイツなどほかの国々の艦船も支援活動に応えた[8][10]
原因

メッシーナ海峡周辺はユーラシアプレートアフリカプレートの境界に近く、アルプス・ヒマラヤ造山帯の範囲にあり、イタリアの火山活動(英語版)や、カラブリア弧(英: Calabrian Arc、伊: Arco calabro)と呼ばれる地震活動の活発な地域である。

カラブリア南部では、この地震に先立って、マグニチュード6以上と推定される地震が1894年 (it:Terremoto della Calabria meridionale del 1894) 、1905年 (英語版) 、1907年に発生している[2]。さらに歴史をさかのぼれば、紀元前91年、361年、1509年、1783年のカラブリア地震 (英語版) という大地震がこの周辺で発生している[2]

2008年に発表された Andrea Billi らの研究[12]では、津波を発生させたのは地震そのものではなく、地震を引き金とした大規模な地滑りであるとの説を提唱している[2]
その後
復興と移民

明けて1909年、再建が始まるとともに、防災措置が取られることとなった。建築物は、この地震と同規模の地震に耐えられるように設計された。しかし、復興の進まない中でイタリアのほかの地域に移住する住民も多く、アメリカ合衆国への移民を余儀なくされた人々もいた。

震災による移民がたどった一挿話として、貨客船「フロリダ」の事故が挙げられる。1909年、移民850人の乗客を載せてナポリから出港した「フロリダ」は、大西洋で霧の中で進路を見失い、豪華客船「リパブリック」に衝突、「フロリダ」では3人が即死した。船上で発生したパニックに対して、船長は空中への発砲などの手段をとってようやく沈静化に成功する。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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