1920年代に現在のサウジアラビア全土が統合されると、メッカには内閣府が置かれ、政治の中心となっていたが、1970年代にそれまで首都機能の整っていなかった首都リヤドに政府機能が集中するようになり、メッカの政府機関もリヤドへと移動した[29]。 メッカの経済は巡礼に大きく依存してきた。巡礼はメッカ経済において唯一の産業というわけではないが、巡礼からの収入はメッカのみならずヒジャーズやネジドの経済に大きな影響を与えてきた。巡礼からの収入にはいくつかの方法があり、かつては巡礼には巡礼税が課されていた。この税は1972年までにすべて廃止された。しかし巡礼からの収入の多くは、巡礼に提供する各種サービスから生み出されるものである。たとえば、サウジアラビアの国営航空であるサウジアラビア航空は巡礼からの収入が総収入の12%を占める。陸路でメッカに来た巡礼客も、食事やホテル、みやげ物などのサービスの購入によって莫大な金額をメッカに落としていく。メッカにはムタッウィフと呼ばれる巡礼専門の旅行業者が古くより存在し、巡礼客の行動一切を取り仕切る。ムタッウィフは地元に古くから住む一族が生業としている。1930年代に、ムタッウィフたちはサウジアラビア初代国王アブドゥルアズィーズ・イブン=サウードによって6つの会社に統合させられた[30]。 サウジアラビア政府は聖地の管理者として巡礼客に多額の出費を行い、年に5,000万ドルもの支出を行っているが、メッカが受け取る収入は1億ドルにものぼる。ほかにもメッカにはいくらかの産業や工場があるものの、石油を中心とする経済となっているサウジアラビアにおいて、メッカはもはや経済で重要な地位を占めてはいない[31]。繊維製品や家具、調理用具製造などの産業があるものの、メッカの経済の主力はサービス業である。 20世紀後半から21世紀にかけて、航空運賃の低廉化によりジェット機で巡礼に来る客が増加し、巡礼ツアー商品や旅行パックの販売によって巡礼が行いやすくなったことも巡礼客増加に拍車をかけた。巡礼の時期の顧客増に対応できるようにされたホテルや商店の管理のために、巡礼期のみならず通年で雇用されるサウジ人は数千人にのぼる。こういった雇用の増加により、住宅やサービス業の需要が増加している。市の周辺には高速道路が張り巡らされ、ショッピングモールやホテル、高層ビルが林立している[32]。 メッカの文化は毎年到着する多くの巡礼者の影響を受け、非常に豊かなものとなっている。地元で話される言語はアラビア語のヒジャーズ方言であるが、世界各国からの巡礼者によって世界中のあらゆる言語が話されている。古来より世界各地の文化が混交するメッカにおいては、19世紀初頭のパドリ戦争(先述)のように、あらたなイスラームの潮流や新思想などが持ちよられ、持ち帰られた。 メッカでもっとも人気のあるスポーツはサッカーであり、1945年に設立されたサウジアラビアでもっとも古いプロサッカークラブのひとつであるアル・ワフダ・メッカがこの街に本拠を置いている。同チームは3万8,000人が収容できるメッカ最大のスタジアムである[33]キング・アブドゥルアズィーズ・スタジアムをホームとしている。 メッカには多くの学校がある。2005年には、532の公立・私立の男子校と681の公立・私立の女子校がメッカに存在した[34]。メッカには大学が一つだけある。1949年に設立されたウンム・アル=クラー大学は、1979年に公立大学となった。 メッカにはメッカ東空港があるが、旅客サービスをしていないため、空路の場合、ジッダのキング・アブドゥルアズィーズ国際空港が最寄りとなる。同空港にはメッカ巡礼者のみを専門に扱うハッジ・ターミナルがある。 20世紀初頭にヒジャーズ鉄道の延伸計画があったものの、ダマスカスからメディナまで開通した時点で第一次世界大戦が勃発し、延伸計画もヒジャーズ鉄道そのものも廃止を余儀なくされた。巡礼の時期とそれ以外を問わず、メッカ市においては住民にも巡礼客にも一切の公共交通機関は提供されておらず、市内や郊外を回るためには、個人の車かタクシーに頼るより他はなかった。
経済
文化マスジド・ハラームと、奥のアブラージュ・アル・ベイト・タワーズ。近代的なビル群はマスジド・ハラームよりも高い。
交通メッカ付近の高速道路にある、イスラム教徒以外入域禁止の看板。非イスラム教徒は次の交差点で右折しなければならない
また、マディーナからラービク、ジェッダ、キング・アブドゥルアズィーズ国際空港を通ってメッカへと向かう全長444 kmのハラマイン高速鉄道(聖都間高速鉄道計画)も持ち上がり、2009年に着工された[37]。第1期工事はメッカ・メトロと同様に中国鉄建、フランス企業、サウジアラビア企業のコンソーシアム「アル・ラジヒ」が受注した。2014年2月の段階では工事の52%が終了し、2015年の12月末には開通する予定[38]であったが、サウジアラビアは砂漠気候のため砂によって工事が滞り、2018年10月11日開業した。車両はスペインのタルゴ方式を採用する。
この両聖都間は巡礼期間中は非常に混雑し、渋滞などによって期間中は約18時間もかかっていたのに対し、高速鉄道では2時間30分で両都市間を結ぶ計画であり、大幅な利便性向上が期待されている[39]。 メッカは、常に膨大な数の巡礼が集まっており、何かの理由でパニックが起きた際、将棋倒しによる群集事故が絶えない。1990年以降の大事故のみ数え上げても といったものがある。死者が上記ほど多くない小事故については数え上げることすらできない。 「メッカ」という言葉は、宗教的な意味に限らず、重要な場所、人を引きつける場所、あるいはどっと押し寄せた人々を表す言葉として、用いられるようになっている[41]。似たような比喩に「聖地」という表現がある。 ある一定の目的や意思を持った多数の人が集まる場所を「憧れの地」や「中心」とみなし、イスラム教徒が集まるメッカに例えて「〇〇のメッカ」と慣用することがある[41]。たとえば「苗場はスキーヤーのメッカ」「高校球児のメッカ、甲子園」、あるいは「競艇のメッカ、住之江」などというように使う。テレビ朝日の番組では、生放送で「渋滞のメッカ、六本木」という表現をしたこともある。 ただし、サウジアラビア政府やムスリムは、メッカ自体を『不可侵のイスラム教の聖地』『預言者ムハンマドの生誕地』であるととらえているため、このような比喩や用法を好んでいない[42]。先述のテレビ朝日の番組ではこの後、「渋滞のメッカ・六本木」のことを、不適切な表現だったと謝罪する一幕もあった。 ちなみに現在の日本のテレビ放送では「〇〇のメッカ」は、宗教や宗教用語について配慮し、表現の自主規制のため使用されない[42]。
群集事故
1990年7月2日 - 1,426人死亡
1994年5月23日 - 270人死亡
1998年4月9日 - 119人死亡
2004年1月1日 - 251人死亡
2006年1月12日 - 362人死亡
2015年9月24日 - 2,181人死亡[40] - 2015年メナー群衆事故
比喩表現マスジド・ハラームと周辺に集まる人々
脚注[脚注の使い方]^ ⇒Mecca Municipality
^ Anthony Ham, Martha Brekhus Shams, Andrew Madden (2004). Saudi Arabia